小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 54

2014.08.15

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:会長となる)
 
 三役(青年会の)も無事任期を終え、景気も仕事も右肩上がりで多忙な毎日であった。
 
そろそろ町の青年会を抜けようかと考えていたところ、小坂屋(小田切氏)の次の会長をと、
 
先輩、仲間の会員から是非やって欲しいと何回も言われていた。
 
 しかし、私は首を絶対に縦に振らずにいた。やりたくなかった。
 
何度も、何人にも口説きに押しかけられても頑固に断り続けていた。
  
終いには、他の地区の、私にとっては信用あるI先輩が乗り込んできて、
 
「大勢がお前さんが良いと言っているのだから、受けてやったらどうよ。
 
今ここまで期待されて、それでも尚、断ってしまっては町の青年会、村の他地区の若い衆がガッカリするぞ。」
 
 I先輩にまで口説かれ、私は逃げ場がなくなってしまい、とうとう一大決心をしたのであった。
 
ただ、そういっても私自身、左っぽい人達を追い詰めて騒動となったので若干気が引けてもいた。
 
だが今はその関係も絶え、村内の他地区も一件落着し、喜び、意気投合した状況だったので、
 
中立無党派の立場なら誰にも気兼ねせずにいられるだろうと、“まあいいか”と腹を決めた。
 
 毎年5月1日のメーデーは、うちの小さな町工場に労組があるわけでもなし、
 
私にとっては何の意味もない一日だが、
 
宮田の駅前には、労組のある職場から、役場、タカノ、日発、山田、とそれは賃上げ要求の人達の集まりで、
 
大層な行事となる。自分達の身勝手な要求ばかりで、経営者と労働者のイタチゴッコがエスカレートしていく。
 
そんな時代になっていた。
 
 青年会でも、
 
「度が過ぎると会社が倒産してしまうよな。」との話も出たものだ。
 
 それからの5~6年で世間一般的にも、大手と下請け(零細)の給与格差は大きく広がった。
 
 私の工場は下請けなので、毎年のベースアップのペースについていけなくなっていた。
 
それでも、昇給額が4ケタのうちは、仕事を増やして格差を最小限に、との思いで
 
残業もしてもらってフォローしていたが、5ケタの昇給が大手で始まった時には、流石に、
 
ついて行くどころの話ではなく、それこそ色んな意味で苦労の連続の始まり、
 
零細企業受難の幕開けともいうべき時代にさしかかり始めていた。
 
 だからこそ、自分が若いうちに大役をやって、早く、本業の仕事の方に本腰を入れるぞと覚悟を決めたのだ。
 
 

アキトの履歴書 53

2014.08.14

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:心おどる青春)
 
 町の青年会は、祇園祭を苦労しながらも団結して行う大きなチームとして、地域に認められていた。
 
祭りでご祝儀を頂いていることで、少々のお金もあり、その使い道は飲食ばかりでなく、
 
皆で楽しむ行事にも回っていた。団体事業ばかりでなく小グループの活動としても役立てていた。
 
 当時の一般賃金は、1ヵ月 8,000円から9,000円位だったが、(注:1960年代半ば)
 
出来るだけ個人の持ち出しをなくし、色んな行事に使ったので楽しいことも多々あった。
 
 ドライブにも何回か行った。あの頃、乗用車は村内でも3~5台位しかなく、ペーパードライバーが多い時代。
 
レンタカーを借り、若干の運転経験がある人の運転でもって、“遠乗り”と称して出かけるのだ。
 
この頃には、我が家にも父が東京の親戚から買った“セコ”の乗用車セドリックがあり、ドライブには好都合。
 
伊那市でレンタカーを2台借り、合わせて3台ほどで皆とよくドライブした。
 
木曽の目覚めの床、蓼科、白樺高原、戸隠バードライン、善光寺等々。当時ドライブは流行の最先端。
 
夢のようなひと時だった。
 
 ダンスも流行った頃で、伊那のエスカイヤ(その昔、ギター類を製造していた)の倉庫にもよく行った。
 
私は全くの素人だったが、仲間の内に知っている者がいて、土曜日の夜になると数人が私の家に集まってきては
 
車に乗り皆で出かける。
 
 たしか、ダンスホールの近場に小さなお社があり、よくそこに車を駐車していた。
 
初めての時は私は運転手として行ったので、“ゲタ履き”だった。薄暗い建物の中に入って見学していると、
 
ダンスにも色々の曲があり、ブルース、ルンバ、ワルツ、ジルバ、マンボ等々を、恥も外聞もなく、
 
ペアになった若者が真剣に踊っていた。
 
 私みたいな者でも、空いている(相手がいない)女性の前に行って
 
「お願いします」と言えば、誰でも相手をしてもらえたのを覚えている。
 
とは言っても、初っ端に赤っ恥をかいた私は少し位のステップを覚える気になり、
 
ダンスの初心者向ステップの本(中川一家)を買って、少しだけかじってから挑戦したのはいうまでもない。
 
 青年会でも小学校の体育館を借りて、ダンスパーティーを催すなど流行のはしりをした時期でもあった。
 
 映画は宮田劇場のオールナイト(土曜日の夜だった)もあり、我々若者には、新鮮な出会いや体験ばかり。
 
実に楽しい思い出である。
 
人との交流があって、つかの間の息抜きが出来るささやかな青春時代だ。
 
 

 

アキトの履歴書 52

2014.08.13

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期~革新に名を借りた紛い物(まがいもの)の正体)
 
 赤い霧一掃を、私達町青年会で徹底し、中立無党派を推進したため、
 
(村一番の大所帯である)町青年会が抜けた村青年会の全体はタガの外れた状態となり、
 
村中に青年会のあり方についての大論争が巻き起こった。
 
この後数年で村中の青年会・各単会が消滅することになるとは、私達も全く考えてもいなかった。
 
 離脱の象徴となった一件は、町青年会員全員と村、郡の連合役員幹部との討論会だった。
 
自主独立のはずの各青年会単会へ、左翼かぶれの行事等の参加・協力の押し付けはおかしい、
 
とんでもない状況である。
 
今後はこの場以降、一切の係わりを断つ。という総会を開いた。
 
 色々な発言があったが、決定的な質問となったのは、
 
『皆さんは一体、何を目標にして、どんな世の中にしたいのか。それは、実際に日本に合うのか、出来るのか。
 
答えをちゃんと言って下さい。』
 
であったと思うが、彼らは全く返答が出来なかった。
 
 こんな人たちの押し付けはまっぴらごめんだという事で、町青年会は村全体の組織から独立した。
 
 この年の冬、私が戸隠に年末年始の連休中、毎年のように何人かでスキーに泊まり込みで行って帰ってみると、
 
小田切氏が血相を変えて家にきて、
 
「小木曽、えらいことになっているぞ」と言う。
 
 追い詰められた共産党かぶれの人等が、いわゆる“アジビラ”を、事もあろうに村内と近隣の市町村の一部にまで、
 
新聞の折り込みチラシの全戸配布の要領よろしく配っていた。
 
文中には名指しの“小木曽”がゲラ刷りされている。
 
全く身に覚えのない文面にビックリする他なかった。それは、
 
・・・・・
 
私がある国会議員からお金を受け取り、共産党(の青年部組織)を貶して(けなして)大混乱に陥れた
 
・・・・・
 
だったが、全くのデタラメ、架空の話で思わず笑っちゃうほどの内容に、
 
たまげたと同時にバカな連中だとあきれたのだった。
 
 私の名前と、全く知らない国会議員の名前まで挙げて、書いてあるそのビラを、いつかの証拠として、
 
しばらくの間手元に残してはみたが、相手するにあまりにバカバカしく、
 
村民の内でも取り立てて話題にする者もいないようだった。
 
 このことは、私が、早く青年会を卒業して身を固め仕事に精を出したほうが良い、
 
こんなバカな連中と付き合うのは御免だ。と思う一因となった。
 
 中越、大久保以外の各単会の方々から、
 
『新しく青年会組織を発足して会長を』とも言われたが、固くお断りを通した。
 
多少恨みを持った方もいたと思うが、私たちの年代以降、
 
ここ宮田村で、共産党が表立った活動を青年会では出来ないこととなり、結果良かったと考えている。
 
 今から半世紀ほど前の話。私が21、2歳の頃のことだ。
 
 
(注:1964、65年頃)
 
(意見には個人差があります。不定期で連載。回数は未定)
 
 

 

アキトの履歴書 51‐2

2014.08.12

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年会と政治活動~2)
 
 それは確か、
 
“原水爆禁止広島大会”とやらに、共産党、社会党の主導に染まった連中の命令か指示なのか、に従って、
 
“参加費用を捻出するため、各部落ごと、資金カンパをせよ”
 
との話があり、青年会員に対して各地区、班割りで、一人ずつが数十軒を訪問し、
 
一口幾らでも良いのでお金を集める旨の指示があった。
 
当時、私も何も考えなしに全く見ず知らずの家にまで廻らされた。
 
その時、伺ったお宅で印象に残っているのは、障子はなんともボロボロで、応対に出てきた母親とおぼしき方の、
 
いかにも弱々しい姿であった。
 
役目上、『いくらでも良いので』と、お金の無心を切り出し、5円玉と2~3円を頂戴してしまった。
 
そのお宅から出てきた私は、
 
“何でこんなことまでして、貧乏人からまでお金を集めなくてはならないのか”と、
 
自責の念にかられた。
 
 ここにきて、もう社会党、共産党はとんでもない連中の集まりで、自分勝手な人達で、他人の事情も一切構わず、
 
ひどいことを平気でするものだと憤った。
 
 これ以降、絶対に左翼のいう事は聞かないぞ、と決意をした。
 
本当に広島へ行きたいのなら、手弁当で行くべきだし、お金が必要なら田畑を売ってでも行けばいいではないか。
 
 津島神社の前に貸切バスが来て、皆で集めたお金で、ピクニックか旅行気分で出かける姿がありありと見えてきて、
 
とても、腹を立てずには居られなかった。
 
 それから後の正月休みに、小田切村長宅にK君と二人で訪問した。奥さんが出てきて
 
『昼間飲んでしまって、今は横になっている(寝ている)』
 
と言われたのだが、若い勢いそのままに、無理に起こして面会させてもらった。ご本人が起きてきて顔を出し、
 
『おお、よく来てくれたな。まあ、正月だから上がれ。』
 
『(奥さんに)酒を出せ』
 
と、酒まで出して勧めてくれ、この時、村の青年会の左翼への傾斜等、現実の話をかなりした。
 
そして、
 
『私どもの「町青年会」は社会党、共産党の団体ではないので、
 
郡連かぶれの村の青年会組織からは離脱する』旨の話をした。
 
 しかし、これが元で村中の噂となり、その影響は他部落にも波及し、次々に左翼から離れる動きとなって
 
“赤い霧一掃”と呼ばれることになる。
 
  
(意見には個人差があります)
 
 

アキトの履歴書 51

2014.08.11

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年会と政治活動)
 
 私が20才になって初めて、国政選挙で選挙権を持ち投票したのは、町の亀屋の主人、小木曽幹夫氏の推挙する
 
吉川久江(キウエ)氏。農業関係の国会議員だった。
 
 成人式が終わるとすぐに、私の家に来て、親父に話をしていった。私も、あの当時は何も知らずに
 
言われるがまま投票していた。国会議員として当選した後日、記念の品(バックルに菊のご紋の付いたベルト)を
 
頂いた事を憶えている。その頃は中選挙区制で、この南信地方には3~4名の国会議員がいた。
 
主な“縄張り争い”は、岡谷・諏訪地区、上伊那地区、下伊那地区で、それぞれに地盤を持った人達で代表が決まる。
 
下伊那は中島がん、上伊那は吉川久江、諏訪地区は小川平二、と、定番の方々が決まっていたようだ。
 
 この頃は、岡谷の共産党を標榜する林百郎氏が、各地区で今にいう“ドブ板選挙”を進め、
 
労組を廻って支持を大きく伸ばして行った時代でもあった。
 
労組のある大きな会社へ乗り込んで歩くスタイル、いわゆる全国区的な選挙活動である。
 
そのうちに、私のところの内職工場の中にまで、襷(タスキ)がけのまま本人が入り込んで、
 
やたらに握手をして去って行った。
 
 これには親父も驚くほどで、各地区への支持の浸透と広がりは、大変な勢いであったものと想像出来る。
 
しかも、おかしな事には、青年会の郡連役員になっている人達は、彼を応援する組織の中に組み込まれており、
 
各単会の長より偉い位置付けの様子であったが、こちらはそれどころではなかった。
 
 私ども町青年会では祇園祭を担うという一大行事が控えており、そんな
 
『共産党だ』、『社会党だ』の話などする暇もない。
 
それでも政治活動をする共産党員がはびこり、私のように特定の思想を持たない無党派の皆には、
 
なんとも反発する事態が起きたのだった。