小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 50

2014.07.24

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期~青年会長の輝きと影2)
 
 苦労することが多いほど、本番の神輿の運行に始まり打ち壊しまで、男として最高の花形にして頂ける。
 
本当の男の花道を味わう気分になれるのも会長ならではのものだった。
 
 それは、当日夕方の神事が行われる時から始まる。
 
耕地(町1~3区)の氏子総代、各区の区長、商工会長と青年会長、神主らが一同に会して、
 
本殿における玉ぐし奉納の神事を執り行う時である。
 
神主が、いの一番に呼び出すのが神男(青年会長)。
 
身に余る光栄、名誉の証だ。
 
『津島様の神を、今宵、神輿に預けるにあたり、その守りと全ての運行の全権を任せるので、
 
どなたよりも偉い人(主役)の立場である』旨のお墨付き(証明)を頂くのである。
 
玉ぐし奉納が済むと、神男は本殿を降り神輿に近づく。
 
神主が恭しく(うやうやしく)息が掛からぬ様に足を運び、そして、神輿の簾を神男が開いて、
 
御神体(ごしんたい)を招き入れ、神輿の心棒に麻ひもで縛りとどめる。
 
この後、神輿の周りに担ぎ手が集まり、“神男の挨拶”に続いて少しのお神酒を頂き、引き続き、
 
めでたいめでたの独特の唄『おんたけやま』を皆で唄った後、本殿前の神輿を担ぎ上げ
 
神社の境内をしばらく“ヨイショヨイショ”で練り歩き、また一旦、元の本殿前に戻り、神輿を台に下ろす。
 
『おんたけやま』の唄をにぎやかに唄ってから、今度は、神輿を担ぎだすと同時に台持ち役が台をはずす。
 
この後は二度と神輿を境内に下ろすことはなく、神社入り口の石段を降りるまで神輿は担いだままだ。
 
いよいよ、神輿の練り歩きの始まりである。
 
 
※神男(青年会長)の挨拶(口上)
 
「神輿の出発に先立ち、一言ご挨拶申し上げます。本日ここに、伝統ある津島神社祭典が執り行われますことは、
 
氏子総代様はじめ町耕の皆様のご協力の賜物と厚くお礼申し上げます。なお、神輿の運行の順序は、
 
神社を出て南へ向かい里宮で折り返し、北へ向かい大曲がりを経て、まねやさん宅で折り返し、
 
駅へ行き折り返し、神社に戻って参ります。
 
無事に帰られるよう皆様のご協力をお願い申し上げ、会長の挨拶といたします」
 
(~この挨拶は代々会長職により受け継いでいたものだ~)
 
(不定期で連載。回数は未定)
 
 

アキトの履歴書 49

2013.10.05

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期~青年会長の輝きと影)
 
 私の年より2~4年上の先輩会員が主力メンバーとして、町の祇園祭を仕切る時代がやって来たが、
 
大方の会員は2~3年の経験(キャリア)しかない。そうは言っても横笛を10曲位マスターして、
 
良い音色が出せるまでには、最低でも2~3年みっちり練習しなければ適わない。それだけの技術が必要だった。
 
 入会して、まず男子会員は笛で音が出るか、出せるのかが大変難しいことだった。
 
ある年代では横笛の上手い人にも限りがあり、ダメな人はどんなに練習しても良い音色にはなれない。
 
そんな状況で引き継いできていたので、上手な人が2~5人いた年代から、ある年に突然(実際は突然ではないのだが)
 
3人も抜けたら大変なことになってしまい、山車の囃し方の格好がつかなくなってしまう事が悩みの種だった。
 
そのため、無理なお願いをして、退会した先輩に笛だけは出て頂いていた。
 
 この頃、ある先輩にお願いに行ったところ
 
『いくら、くれるかい』
 
と訊かれたと聞き、私は
 
「そんな先輩の指導や応援なら、二度とお願いしない。こちらからお断りだ。」
 
と憤った。
 
ボランティアなのにお金を要求するなんて、とんでもない。へぼい先輩がいたものだ。
 
その方は、後に村議にもなったが挫折し、若くして亡くなられた。
 
 そんなこともあったが、協力して頂ける方々には、青年会を抜けても数年、ご指導と協力を継続してもらった。
 
本当に頭が下がる思いで、今も感謝の念に堪えない。
 
 だから、毎年、一年任期の神男(会長)になった人は、本番を無事に終えるまでの色々なプレッシャーは人知れず、
 
大変な重荷であったと思う。
  
これは、実際に背負った人でなければ苦労は分からないだろう。
 
 まさか、翌年、私自身が会長を務めることになるとは、その時は予期していなかった。
 
 

アキトの履歴書 48

2013.09.26

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期~睦友会の結成)
 
 年々青年会で継承してきた祇園祭も、人数が極端に少ない年代がどうしても出来てしまう。
 
跡取りの長男か個人で商売を営む、または親と一緒に住んでいる人くらいでは、町全体でも小人数で無理が利かない。
 
結婚と同時に青年会を退会してしまうという現実もあり、ただでさえ厳しい状況になりつつあったところに、
 
ある年代のカタマリがごっそり抜けることになった。
 
私が入会した時点では、そんな厳しい状況になるとは思ってもいなかった。
 
私の年代の前後で12~15名ほどが入会しており、これでも多い年代ではあった。
 
 ところが、新入会員の素人集団だけ(私よりキャリアのあるのは4年先輩の5名)では、
 
怖い神輿(あばれみこし)には参加出来ない、とても無理だ、返納したらどうか。という話まで出始めていた。
 
そこで、皆でどうするか話し合いをし、(氏子の)町耕地全域に現状を広く訴えることとした。
 
出来る限り、祭りの人員確保と青年会への入会をお願いする。
 
また、金銭面からも商工会等の協力を願いたい。とした上で、
 
(青年会での仕切りを)継続して欲しいか、辞めても良いか、とするアンケート調査を実施した。
 
その結果、圧倒的な答えが、
 
『是非継続していって欲しい』
 
また、
 
『今では村を挙げての祭りとなっており、唯一、お客を呼べるイベントで、大切なものだ』
 
という総意が得られた。
 
 ここで辞めてしまうのが、一番楽な話だったが、よし、頑張ってやってやろうとの思いを強くした。
 
今一度、会員皆で協力し合ってやっていこうと、結束を図ることにもなった。
 
 こういう事から、私たち仲間の固い絆、親子よりも強い仲間意識が生まれ、
 
互いの立場に立ち苦楽を共にするという気持ちを共有していた。
 
 ある日、私の家に数人が集まった。小さな会を作り長く付き合っていこう、互いに切磋琢磨し、
 
仕事、家業にもこの先頑張って、資質向上に努めようとの意思でまとまり、親睦を第一とする『睦友会』を結成した。
 
“自主独立の精神に燃え、互いに協力し将来に向かって良き仲間であり続けるものとする”を旨とし、
 
当初7人で発足した。
 
新たに入会者がある場合、1人でも反対する者が出れば入会は適わないというルールだった。
 
 青年会に入って2~3年、いつの行事も協力し、一緒に時を過ごしてきたメンツであり、
 
最強、最高の仲間だった。
 
 特筆すべきことは、この仲間はそれぞれ職種が全く違っていた事だ。
 
橋本君は郵便局、酒井氏は農協、下平君は電気工事店、小田切氏は大工、近藤君は鉄工所(山浦鉄工)、
 
保科君は農業、それに私。
 
村の消防団にも橋本君を除く全員が入っているかけ出しの同志だった。
 
20歳を過ぎた頃より皆、独立志向が目覚め、サラリーマンの仲間には、起業して独立して小さくても良いので
 
“一国一城の主”になるよう、お互いに後押しするべく話し合ったものである。
 
大工の小田切氏は“棟梁”を目指し、酒井氏も家業を継ぐ(白木屋)、保科君も農業経営、私も家業を継ぐべく、
 
それぞれに意を決することとなっていった。
 
下平君には『宮田村は小さな工場も沢山あるし、電気工事店の会社を起こせば立派に成功するぞ』と、皆で勧めた。
 
本人もやる気はあったが、叶わなかった。
 
橋本君は公務員であったのでサラリーマンとして最後まで勤め上げた。
 
それぞれ目標が決まればそれに向かって進んでいったものだ。
 
 そんな中、山浦鉄工へ勤めていた近藤君が、最後に独立して鉄工所を始めたのは、大きな決断だったと思う。
 
 こんな小さな村にあっても、我々が将来に向け思い通りに取り仕切ってやろう、出来るまで頑張ろうと
 
夢を膨らませた時代であった。
 
 

アキトの履歴書 47

2013.09.25

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期9~勉強とは)
 
 私は勉強が好きな方ではない。しかし、今日まで生きてきた中で、文献から得た知識や経験から導き出した
 
自分の考え方、見方がある。
 
 オギャーとこの世に生まれた赤ちゃんは、言葉に始まり、ありとあらゆる知識、経験等、死に至るまでの全てを、
 
すでに神秘の脳に詰め込まれているものであり、経験、体験済みの事柄を思い出すこと、
 
いうなれば『再現』によって、見かけ上、知恵がついて成長し大人になっていくのだと考える。
 
 親のしつけ、言葉、その他、色々なことがどんどん目に見えてきて、
 
保育園、小学校、中学校、高校、大学、と進むにつれ更に思い出す。
 
すなわち勉強とは、
 
記憶(DNAに埋め込まれた神秘の記憶)を思い出し、頭の中に蘇らせる作業なのだと言っても良い。
 
(一生懸命やりさえすれば簡単に思い出せるだけなのだ)
 
 この事から、努力しさえすれば、高校、大学に行く為のテストなんぞは簡単なのである。
 
こうしたこと(勉強をするかしないか、または、好きか嫌いか)が、
 
十人十色に振り分けられる所以(ゆえん)と私は考えてきた。
 
いわゆる有名校・名門校の出身であることや、高学歴を自慢する人が、世の中には大勢いるが、
 
何の値打があるのか。私にはわからない。
 
 テストの練習をしただけ、学校に行けただけの事で、真似事だけは誰でも出来るのだ。
 
仕事も政治も全て同様だと私は思う。
 
 特に、この国の政治に至っては、“サルまね”までしか出来ない人のなんと多いことか。
 
学者、官僚の人たちの学歴を訊けば一目瞭然である。つまるところ先進国の真似をしていけば、
 
(そのほとんどはアメリカの後追い)良くも悪くも同水準までは到達する。
 
追いかける方は、先を走るものより少しの努力で追いつける。
 
 問題なのは、“未経験、未知の”新規事業にぶつかった時。学歴の問題云々ではない。
 
この場合は、再現ではなく、新たな事柄を体現出来るかが強く問われる。
 
テストの出来が良かった人達ばかりでは全く対応不可であり、何の妙案も浮かばず立ち往生。
 
お先真っ暗状態となるのである。
 
今の日本はこれにあたるのではないかと憂うものだ。
 
 

アキトの履歴書 46

2013.09.21

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期9~プラトンのすすめ)
 
 東京オリンピックで初のお上りさんとなった翌年(昭和40年)、町公民館の図書管理を任された時期があった。
 
当時、町1~3区は公民館一体運営で、公民館内には分館合同の図書館があり、
 
毎年、村から2~3冊の新冊本が提供されていた。
 
週一回の当番で、借りる人、返す人の記帳を預かるというものだった。青年会で盛んに先輩が言う
 
イデオロギー(思想)問題を少し勉強でもと、興味半分でその手の本を一時期、片っ端から読んでみた。
 
主に革命について書かれたものが多かった。フランス革命、ロシア革命、辛亥革命、等々だったが、
 
どの革命の歴史本を読んでも、この国に当てはめるには無理があり、とてもそうはならないだろう。
 
 日本の状況は全く違う。
 
流行り病のように左翼主義に感化された先輩衆の言う事は、所詮、にわかかぶれだと感じた。
 
そもそも日本の国土は小さく狭い。その上、細長い島国で四方は海に囲まれ、しかも、資源が無い国だ。
 
この事実は変えようが無く、自給自足で生きられる訳がないのだから、共産主義なんてなりたくても不可能なのだ。
 
“外国から資源を仕入れて加工して、良い製品を開発し輸出して付加価値で稼ぐ”
 
これしか日本の国が生きていく道はないし、そのためには、自由主義経済社会を標榜して進んでいかねばならない。
 
と、私は強く考えていたので、結局、社会主義・共産主義に与する(くみする)ことはなかった。
 
 この頃、心を打たれた本は、『坂本龍馬 全4巻』がある。これを読んだ時、龍馬の生きざま、
 
自分の事でなく日本のために生きようとする姿、心情、心意気に感嘆した。
 
なかでも姉への手紙で
 
「今一度日本を洗濯致したく候」の言葉は印象深い。
 
それから後、図書棚に並んだ書籍の中にひときわ大きく厚いオレンジ色の本が目についたので、これも読んだ。
 
『プラトン』古代エジプトの哲学者の本だ。
 
その内容は、50年近く経った今でも強烈な記憶として頭の中に焼き付いている。
 
まさに目から鱗(ウロコ)だった。
 
~その昔、人類の祖先は男女兼ね備えた強く逞しい生き物で、時に悪戯(いたずら)をして困ったものだったので、
 
神はお怒りになり、男と女の割り符にしてしまわれた。そして、更には寿命を与えられた。
 
これで半人前になった人間は、お互いに引き付け合い、出来得る限り、
 
より良い相手に巡り会うべく努力することとなった。それが人間を成長させることにもなる。
 
また、寿命があるということは、人生は一度限り。繰り返しはできない。
 
だから、誰しも命のある限り、精一杯懸命に生きることとなるのだ。~
 
という事が書かれていた。
 
『プラトン』を読んでから私は、自分なりの人生観、生き方を常に心に抱いて生きることにしている。
 
とても良い本だと思うので、今の若い人たちにも読んで欲しいし、話して聞かせても良いかも知れない。
 
(さて、現在の村の図書館にプラトンの蔵書があるかどうか?)