小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 45

2013.08.17

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期8~祭りのトラブルと迷い子リーダー)
 
 町の青年会の女性会員の中には、保母をしている人が3人ほどいたが、山車(の後)についての踊りは、
 
祭り当日が休日でないので、職場の都合上、参加は不可(というより拒否に近い)とのことだった。
 
役場や会社勤めの他の人たちは、毎年ちゃんと新曲3曲ずつの手踊りを習得し、
 
にわか芸人でボランティア参加をしてくれているのに、なぜ一緒に出来ないのか合点がゆかなかった。
 
先輩諸氏をもってしても口説くことは叶わなかった。
 
 そのくせ、他部落の先輩方に左翼っぽい言動を吹聴(ふいちょう)され、赤く染まっていくのがみえみえだった。
 
私のものの見かたとはずいぶん違う、どうしてもスッキリしないと感じた。
 
 当時、他地区でも、やはり各部落に伝わる神社のお祭りはあったのだが、
 
なぜか“三神社統一”という話が他地区の青年会で話題になっていた。
 
なんでも、各単会で担っていくのはもう限界があるとの事で、北割、中越、大久保の各神社の祭りを一緒に出来ないか
 
との話が進んでいるらしい。
 
若い人が少ないところに、いかにも左翼っぽい連中が考えそうなことだと、私は思った。
 
断続する方法、やり方には色々あると思うが、文字通り、手っ取り早く手を引く方へ努力をしていたのである。
 
ただ、町青年会にあっても、会員は他地区の人数よりは大ぜい在籍していたのだが、どうやりくりしても
 
町の祇園祭を担うには人員不足だったため、一人が3人分くらいの役目をこなさないと、
 
祭りのスムーズな運営と実現は、不可能な状況にはなっていた。
 
(意見には個人差があります。)
 
 
※神男=しんおとこ
 
 本殿の神様(御神体)を一時移すべく、神主の手から神輿の真柱へと導き、麻ひもでくくる。
 
この行為は神主と神男が協力して行なわれる。
 
その後、御神体を乗せた神輿“あばれみこし”は町中へと繰り出す。
 
この日の神男は、御目出度い神を守りながら、氏子の代表として“あばれみこし”の運行一切を取り仕切る、
 
祭り一番の名誉ある役目である。
 
 神男の大役は、人生で一度しかやってはいけない。貴重な巡り合わせであると同時に、
 
その名誉は絶大であり、まさに男の花道である。
 
 
(不定期で連載。回数は未定)
 
 

アキトの履歴書 44

2013.06.20

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期7~祭りのトラブルと迷い子リーダー)
 
 私が青年会に入った時は、19才。消防入団と同時期だった。(昭和37年)
 
町の青年会長は1年毎に代わることになっていた。上下3年くらいの世代で協力し合う仲間が出来ていて、
 
いわば結(ゆい)のような、結束力が受け継がれていた。
 
 1年、2年、3年経った頃に、会員同士での次期会長選挙が行われた。この時、2年先輩の二人が同数となり、
 
決選投票の末、決まったのが小田切保鉱氏だった。一方、会長になれなかったI氏は悔しかったのか、
 
会合や慰労会等、事あるごとに、やたらと場の雰囲気をぶち壊す行為を繰り返し、皆を困らせていた。
 
 飲み会のあったある日の終了間際には、とうとう台ごとひっくり返した。
 
私は三役になっていたので、場が白けるのはまずいし、誰にも止められないと考え、
 
『おい。喧嘩売るなら外へ出ろ。』
 
と一喝し、本人を連れ出した。
 
「何だ、お前。俺に文句があるのか。」
 
『文句が言いたいから外へ出てもらったのだ。』
 
と言ったか言わないうちに、手を出して突っかかって来たので、境内ではまずい、
 
下の宝蔵庫の前で決着をつけようと言って石段を下りていった。
 
2、3回どつき合った時、
 
『先輩かも知れんが悪いのはお前だ。絶対に許せん。酒に酔っていても容赦しないから、そう覚悟しろよ。』
 
と啖呵をきってやった。
 
こちらのあまりの剣幕に、今晩はおとなしくするとの事で公民館へ戻った。ところが、会が終って片づけをし、
 
神社の石段を下りたところで揉め事の続きになった。子分のような立場のM氏が私に突っかかって来たのだ。
 
『何だ、お前。悪いことした奴の肩を持つのか』
 
と、また一喝して突き飛ばしたところ、彼は転んでしまった。皆の前で恥をかかせてしまって悪いとは思ったが、
 
黙っていれば後々困ることになる。
 
祇園祭のような一大イベントを成功させるには不満分子の芽は早めに摘むことだと、自分の役目を考えていた。
 
 後に聞いた話では、少し酒癖が悪く、気に入らないとすぐにノミを振りかざして威嚇する人物らしかったので、
 
刃物を持って来られては、と、しばらくは警戒していた。
 
しかし、単純な者同士、仲直りは早かった。
 
 

アキトの履歴書 43‐2

2013.06.19

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
ここ宮田では、町区に人口が集中して盛っていた昔、生糸・繭(まゆ)を主体にした製糸産業が、
 
全国的にみても特に盛んであり、活力に溢れた一時代を築いた歴史があった。
 
 戦後を経て、これに取って代わった大小様々な起業家たちにより、村の面積は狭いにも係わらず、
 
現在の製造業群のある村へと成長したのである。
 
一時は、働き先が多いので他地域より労働者(サラリーマン)が宮田に流入し、競争が激しく、
 
若者(金の卵たち)は自然の流れで大きな会社、評判の良い職場へと就職した。
 
宮田に限らず日本中、若者は中学を卒業すると都会へ、大企業へと次々に集団就職していった。
 
私が村に残ったこの頃も、長男、跡取り以外は殆んどが県外へ出ていく時代だった。
 
それ故に、村の最大イベントである祇園祭を受け継いでいくのは、人数的にもギリギリで大変な事業だった。
 
飾り道具は日数をかければ出来るものの、祭り当日は、山車、あばれみこしと人足がいる。
  
 会長になった人は、それを仕切るのに相当なプレッシャーがかかった。
 
とにもかくにも一致団結、まとまって協力してもらわないことには出来ない。
 
何年か前の先輩で伊那峡に立った(身投げしようと)ほど思い詰めた人もいた、とも聞いた。
 
 特に、みこしは一人では担げない。動かせない。統率のとれた運行も欠かせない。
 
『お囃子は協力出来ても、みこしは怖くて嫌です』
 
という人も何人かいた。
 
 まさに、あばれみこしと云われる故のことだった。
 
私の姉が青年会に属していた頃は、山車は、みこしの出る前(神輿を練って歩く先。道々)を清める意味があり、
 
14日の昼から町内全部を廻り、翌日の本祭にも山車は運行されていた。
 
京都の祇園祭よろしく(似せた)山車は2階建てで、下には大太鼓、小太鼓、鼓(つつみ)、
 
三味線、オオカワ、チンチン(金)等が載り、山車の後部に横笛で演目を奏うでながら歩く
 
囃し方衆が続くという行列を組む。
 
ちなみに、宮田の津島様のお囃子の演目には『本囃し』と『帰り囃し』があるが、山車運行の道順にて
 
津島神社から遠のくコースをとっていく時は『本囃し』、
 
津島神社に近づくコースをとる時は『帰り囃し』を演奏して練り歩くのが常である。
 
帰り囃しの駅前から神社に向かう道中で、特別な踊り~ひょっとことおかめ~が、うれしはずかしの身振り手振りの
 
『ばかおどり』が山車の2階で披露されると、沿道の大勢の観衆は拍手喝さい、盛り上がったものだ。
 
階上の二人は、それぞれ団扇(うちわ)を手に派手に踊り、汗だくとなるも、お面をかぶり踊っている本人たちは、
 
誰かも知られないので恥も外聞も忘れ、この時ばかりは山車の花形。
 
まさに千両役者だ。
 
私も23歳、会長の大役になった年(神男)に一度だけ、人知れず演ることが叶った。
 
祭り当日まで段取りはすべて順調に進み、
 
唯一、梅雨が長引きヤキモキしていたところ、カラッと良い天気となり、嬉しくて、
 
踊りながらお面の下でうれし泣きをしたことを思い出す。
 
 

アキトの履歴書 43

2013.05.28

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期7~祇園祭:※あばれみこしと山車)
 
 毎年7月14・15日は、500年の伝統を誇る宮田の祇園祭である。
 
 青年会では神事以外の運営全てを担って代々受け継いでおり、重大な責任も背負って祭りの2日間、
  
まさに主役。
 
町青年会長を頂点に、この祭りを全員が一致団結し成功させる。村の伝統を守り継承することが大前提だった。
 
 祭り当日(宵祭り)は、朝一で幟(のぼり)を津島神社に2本、町の一区、三区に各1本ずつ立て、
 
境内に手作りの市松を飾り付け、その屋根状の下に連結した提灯を竿で繋いで設置する。
 
神殿の前には東西に2つ、巨大な幟灯篭(のぼりとうろう)を掲げる。ここまでが朝一に準備する前段の仕事である。
 
 そして、一度、各自家に帰り、今度は地区ごとに万国旗を、みこし、山車(やたい)が練り歩く際、
 
妨げにならない高さに飾り付けをする。
 
(この万国旗は、前日の夕方か、当日早朝に飾り付けすることとなっている)
 
 現在の祇園祭は、7月の第3週の土日に日程を定め、開催されているが、
 
この頃は14・15日と決まっていたので、学校も会社も平日であれば通常通り、
 
授業や仕事に子供も大人も行かなくてはならない。
 
が、祭りの日は昼から山車が繰り出し、夕にはあばれみこしが控えている。
 
このため、氏子である町部の子供たちだけは、この日、特別に学校を半日であがり、
 
堂々とお祭りへ参加するのであった。
 
 さて、朝食を済ませて一息つくと、山車の運行と祇園囃子(ぎおんばやし)を行うため、
 
着替えを持参して神社の詰め所に入り、少しの化粧と浴衣の上にタツケを着て三尺をかけ、
 
手作りの花笠を背に掲げる。
 
 男子は全員が越後獅子の姿で、飾り付けた山車の後ろを横笛を吹きながらついて、街並みを練り歩く。
 
 女子はというと、これまた全員、山車が停車するたびに手踊りを披露する。各所で停まっては
 
沢山のご祝儀を頂きながら運行したものだ。
 
 あの頃は200、300円が相場で、多く出してくれる家で500円くらいだった。
 
その後、相場も上がって(物価?)私が会長を務めた年(23歳)には、下が500~1,000円くらいになっていた。
 
この時、タカノの会長さんからのご祝儀は5,000円と、飛びぬけて沢山下さったのを記憶している。
 
 
※あばれみこし
 
 宮田村、津島神社に500年を超える伝統の祇園祭。
 
担がれる神輿は、街を練り歩いた後、境内に戻ったところで、ご神体を抜き、神社の石段の上から放り投げられ、
 
文字通り神輿がバラバラになるまで何度も落とし、打ち壊される。
 
 この神輿の破片には無病息災、家内安全、商売繁盛等のご利益があるとされ、
 
氏子や、周りに詰めかける観衆の間でも我先にと奪い合う様が観られるほど。毎年、神輿は新調される。
 
 ちなみに、子供たちが担ぐ神輿(こどもみこし)も同様に壊す様を観ることが出来る。
 
 

アキトの履歴書 42‐2

2013.05.24

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
また、当時は自動の“線出し台”がない時代だったので、女性が一人、それこそ1日中機械相手につきっきりで、
 
ばねを巻いたものだった。その機械の運転中にトラブルが発生した場合は、私が急ぎ飛んで行って不具合を直して、
 
またすぐに巻込みを再開するといった毎日だった。
 
 大きなプレス機(30トン:ギヤ掛3号)を導入する際は、現場に入れるため、工場の入り口を一度壊して搬入。
 
竹井工務所で設置工事をしてもらうと、新しい仕事を始めた。
 
 その頃からは、全加工品を出来る限り増やすことを目標として仕事を取り込んでいくようになった。
 
直線機で線材を3~4メートルほど直線加工し、定尺カットする。それをプレスにて曲げ絞り加工する。
 
更に後加工の両端曲げは内職屋さんに出した。回収したものを日発へ持ち込んでソルトテンパーを行い、
 
最後に両端をプレスで切断。これで、ようやくこのばねの完成となる。
 
当時の松下冷機の仕事だった。(冷蔵庫の部品)
 
 まもなく、それとは別の冷蔵庫の部品が立ち上った。材質はステンレスで、仕上がりまでにバレル研磨まであり、
 
これまた外注(信濃精密)で表面を酸洗い。
 
仕上げバレルは日発で行う工程があり、最終で全検(全数検査)して完成となる仕事であった。
 
この品は数量は多くあったが、単価が安く苦労した。
 
 最初のリレークランプ品はソルトテンパーへ、(当時は、日発にも電気炉があまりなかった)
 
ジャブ漬けして、すぐに水に浸すが、その際にバチバチと白いソルトが飛び散って
 
顔や手に飛んでくる、くっついてくる。とにかく大変だった。特に夏は。(薄着のため)
 
私の手にはその時のやけど痕が、今でも黒い斑点となって残っている。
 
 何から何まで初物づくし、ものづくりの現場では全てが試行錯誤の連続で、
 
朝から晩までどうしたら安定した製品作りが出来るのか、創意工夫の事で、頭の中はいっぱいだった。
 
 こういう現場、技法を積み重ねることで、少しずつ成果が目に見えるようになってきて、
 
日々、知らず知らずのうちに『挑戦する本能』が鍛えられていった気がする。
 
こうしてキャリアを積み、習得することが自分の自信につながり、
 
自然な形で努力することに目覚めていったと思う。
 
良い結果を出すまでに、一体どれくらいの事が考えられるのか。
 
とことん考え、研究し試してみることが、いかに大切か、身を持って感じる連続であり、
 
いつの日か努力することが楽しめるようになっている自分がいた。
 
 ものづくりというのは、当たり前であるが、やり通した後のうまく出来たという満足感、達成感は
 
それまでの苦労を忘れさせるほどであり、お金に代えられない喜びとなることを知ったのだ。