進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。
アキトの履歴書 37
2010.04.10
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(青年期1~成人式とタバコ)
中学生の頃より、野球界では長嶋の巨人デビュー、(少しして、“ワンちゃん”王貞治も登場する)
映画界のスーパースター裕次郎の活躍等、時代のヒーロー達が、マスコミ・スクリーン等のメディアを通じて
若い世代の我々の仲間内でも話題になり、憧れの的になっていった。
世はまさしく「巨人、大鵬、玉子焼き」
二十歳になる同世代の仲間が大勢いた当時は、成人式が村の行事として定着する“はしり”であった。
こぞって、上下、三つ揃いの背広を自分に合わせ、特注仕立てで購入することが成人の証(あかし)。
私も知り合いの店に出向いて、寸法取り・サイズと生地の選定をして、少し大人になった気分を味わった。
裕チャンの真似をして、背広はサイドベンツにして作ってもらった。
しかし、それも結局、色柄が気に入らず義兄にあげてしまい、1、2回ほどしか着ていない。
零細企業の職工の私には、成人式以外で背広に袖を通す必要も、機会もなかったのだ。
成人式は一日かけ、村の中学校で行われた。例年通り作法室でのセレモニー、体育館での写真撮影。
終了後、隣町の駒ヶ根に数人で映画を観に行った。
その途中、タバコを買って初めて吸ったのだが、少し吸いこんだ瞬間、めまいと吐き気で立っていられず、
その場にしゃがみ込み、しばらくこらえていた事を憶えている。
以後、カッコ良さで吸っていたが、最初の夜、自室で空き缶に寝タバコをしていて、父の知るところとなった。
「とにかく火事だけは起こすな」
と言われた。
火を点けて1、2センチで消す状態が常だったので、父は
「そんなもったいない吸い方なら止めたらどうだ」
と、よく言ってもいた。
当時はフィルターのないタバコであったので、父は吸い残しをバラして紙で巻き直したり、
キセルで“私の残り”をよく利用していた。
それが、今ではすっかりヘビースモーカーとなってしまっている。
アキトの履歴書 36
2010.02.27
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(祇園囃し入門~10代最後の夏~ Ⅱ)
初めての祇園祭が終わり、ようやく祭りから解放された時、10代最後の思い出に海へ行こうとなった。
ちょい悪の小島君の提案で、5、6人で連れだって逗子へ。
当時、少しばかりの貯金をはたき、夜行で東京に行き、乗り換えて三浦半島方面へと電車で向かった。
海の近くの店でモリと水中メガネを買って、海岸沿いの海の家で泊まることにした。
この時、海の岩の周りを潜って魚を取ったが、天竜川の魚と違って何かごつい魚だったのを記憶している。
更に、これまたごつい岩に貝がびっしり付いていて足が傷付いたのには驚いた。
魚取りの後、今度は泳ごうということになった。
天竜河童の私は張り切り、喜び勇んで皆と一緒に沖の方へと泳ぎだして行ったまでは絶好調。
途中、境界の浮玉を越えてなお、更に沖へと泳いでいた。(遊泳禁止の線を越え)
ところが、他の仲間はと振り返れば、とうに引き返しており、誰一人付いて来ていない。
あわてて引き返して境界の浮玉につかまって一休みしようとするも、浮くどころか私と一緒に沈んでしまう。
“しまった!”
帰りのことまでは、気にもかけていなかったのである。
後は必死だった。
とにかく泳いで泳いで、ぼつぼつ(そろそろ)足が着く頃かと立とうとしても、
まだまだ深く、海水は鼻から容赦なく入ってくる。
命からがらとはこういうことかと思い知らされたのだが、それでも何とか浜にたどり着くことが出来た。
こんな訳で19の夏の思い出は、文字通り塩辛い、しこたま塩を食らった思い出となった。
アキトの履歴書 35
2010.02.18
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(祇園囃し入門~10代最後の夏~)
ちょい悪仲間のグループ共々、青年会にも入った。手始めに“やらされた”のが、祇園祭のボランティア活動である。
当時は、学校を卒業すると入会の勧誘があり、先輩に男女を問わず声をかけられて入会したものだ。
宮田の町青年会は、他部落と違い、伝統ある祇園祭を一手に担っていたので(神事以外)、大勢の人手が必要だった。
5月の連休を過ぎた頃から7月14日の祭りの当日まで、囃しの笛・太鼓の練習、踊り(3曲)を習得するために
大変な労力を要す、一大事業となっていた。
初めての時は、それは恥ずかしいもので、途中逃げ出したくなる位の“素人の旅芸人”であったから
無理もなかった。
十人十色だから山浦さんの踊り師匠の下で、毎年新曲を教えられたものだ。
今思えば、出来の悪い私たちに対して、よくまあ粘り強く教えて下さった。
素晴らしいボランティアの先駆者であった。
その昔、村が栄えた時代には春日屋に芸子をしていた経験があるとの話を先輩に聞いた。
何でも、若い頃はすごい人気で、村内外の男たちが競争で指名争いしたほどだったと。
それほどの師匠であったのだ。
当時は山車が壊れて組み立てられないため、木社(宮田木材)のトラックの荷台をオープンにして、
大太鼓、小太鼓、大川、鼓、三味線は荷台の上に、
笛の囃し方の10~15人は歩行しながらの行列で町じゅうを練り歩き、町内各所で止めては手踊りの披露をして、
ご祝儀を頂いて廻ったものだ。(当時は引き子はつけていなかった)
バッテリーを利用してスピーカー、レコードをかけても行なった。
私は、先輩の平沢勝氏(故人)より鼓を教えられた。手の皮が剥けて痛くなるまでやった。
うまくならないと音が“カポン”と出ない。とにかく苦労した。
初めての祇園祭が終わり、ようやく祭りから解放された時、10代最後の思い出に海へ行こうという話になり、
ちょい悪の小島君の提案で、5、6人で連れだって逗子へ行くことになった。
彼は都会育ちで、小学校時代は女優の“松原智恵子”と机を共にしていたそうだ。
また、湘南地方で海水浴、魚取りと、よくして遊んでいたそうである。
(不定期で連載。回数は未定)
アキトの履歴書 34
2010.01.16
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(ちょい悪仲間との公民館活動 2)
そんな仲間とのバスケットの練習も終わる夏の夜は、戸締りをして外に出、一休みしてから帰ったものだが、
たまに「のどが渇いたな」と言っては付近の畑のトマトを“チョット拝借”した時も度々あった。
(若気の至り、時効という事でお許し願いたい)
私自身、新聞配達を3月で辞め、以後は金銭的にはキビシイ現実もあり、パチンコ以外娯楽は皆無であった。
その頃、お寺の住職さんが私に、
「あんた、バスケットをやっている小木曽さんだね。札付き(ふだつき)の若い人たちが、
最近とても良くなってくれて、良い仲間作りをしてくれて。とても良い事ですよ」
と、褒められた事を想い出す。
私自身、特別な思いでバスケをやっていたわけではなく、あくまで自分の趣味でやっていたもので、
私の言う事を、ごく自然に仲間が聞いてくれただけなのだ。
このバスケの延長で、私の先輩達(青年会)とバスケットクラブが、
それから5年間ほど全盛を誇っていく時期となった。
あの頃は公民館のグループ活動が盛んに行われていた時代でもあり、
料理、お花、音楽等、すでに色々な活動があった。
しかし、私たちのような体育会系のバスケットグループは、その中でも異色の存在であったようだ。
ある時は、料理グループの方たちの作った料理をご馳走に、腹いっぱい頂いた事もあった。
若い娘たちと指導している先生が居たのを記憶している。
私たちのバスケットクラブの場合は、指導者は居ず、技術的なものを含め、私が指導者を兼ねて活動していた。
思えば、公民館活動は料理グループを筆頭に、嫁入り前の人、若い人たちが、
教養、資質向上、作法を習っていた場であった。若い者が社会に適応できるようになるための社会教育として、
有効な人づくりとして、十分その機能があったのだろう。
今日でも企業内で習い事グループが福利厚生の一環として行われているところもあるようだが、
現在の企業、社会にはそうした余裕がないのか、余り聴き及ばない。
アキトの履歴書 33
2009.12.23
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(ちょい悪仲間との公民館活動)
昭和30年代後半。公民館社会活動の一環として青年学級というものがあった。
高校時代バスケットで活躍していた延長で仲間を集め、当時の、細田我徳(がとく)公民館長にお願いをして
学級クラブとして認めて頂き、毎週1回、その仲間とともに、バスケットの練習で小学校の体育館を借り、
飛び跳ねていた。
私以外は、ほとんど初体験の若者ばかり、5、6人での発足であった。
細田染色店で、トレードマークの描かれた横断幕を作成し、毎回、窓際に張って活動していた。
夏はパンツ一丁で飛び回っていたものだ。仲間内の一人の父親は、
“遊び呆けて困り果てていた子供が、真面目に体育館で、毎週汗を流しているなんて信じられない”
と考え、ある夜、小学校の体育館の板の隙間から中の様子を覗き見したところ、本当に練習をしているのを見て、
感心し、安心して帰った。との話を、後日聞かされた。
もう一人。
私と同世代の、東京から宮田に来、岡田角ノミに勤めていた小島君がいた。
この男は村の駐在さんのブラックリストにも載っている程の男で、酒、タバコはもちろんのこと、
おまけに喧嘩っ早くて、駒ヶ根辺りのチンピラとよく鉢合わせをしていたようであった。
彼とは、私が高校を卒業する頃に出会った。駅西の安アパートにお婆さんと2人暮らしだった。
将棋が好きで、ひょんなことで知り合い、何回か将棋を指す事もあった。
バスケの仲間に引き込んだのは、他の仲間を通じてのものだ。
ある時、彼はタバコが切れ、大変へこんでいる様子だったので、
「買えば良いではないか」
と言ったところ、
「(給料の)前借り、前借りで、給料袋は頂いたが
中の明細書には赤い字で“-1,500”とあり、受取る金がない」
との答えだった。
あまりに情けない姿に、タバコ代の100円ほどを私がやったところ、すぐさま他の者に買いに走らせ、
あのしょげた姿はどこへやら。早速、火を点けると、
「お前も吸わないか」
と一本差し出す。“現金なもの”である。
私が、
「二十歳までは絶対口にしない」と断ると
「堅いヤツだな」と言われた。
そんな自分も、現在ではすっかりヘビースモーカーと化しているのだが。