進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。
アキトの履歴書 27
2009.09.25
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(駆け出し 4)
心機一転はしたものの、現実は、新しい仕事に取り組もうにも、
ウチ(小木曽製作所)は設備的に全く無いものばかりだったので、事業拡大したくても
本当に思うようにいくはずもなく、大変な挑戦だった。
我が家は農家でもないから田畑はもちろん無く、機械設備一つ購入するのに先立つもの、
お金も、何もかもがなかった。
黙っていても、父の苦労は目の当たりにしていた。
“ああ、田んぼの一枚でもあれば、プレスの1つや2つ直ぐ買う事が出来るのに”
と悔しい思いをしたものだ。
当時、銀行では土地本位制が定着しており、土地を担保にすれば相当の融資を受けられたのだ。
我が家の財産らしいものは古屋のみだったから、次から次へ設備導入という訳にはいかない。
そこには、他人にはわからない大変な苦労と、それ以上の歯がゆさがあった。
普通の会社であれば1、2ヶ月で設備できるのに、ウチでは3~5年。どうしても遅れてしまう。
そんな状況の中、駆け出しの私は、テンパー炉の設備を借りて熱処理をするために、
ウチから日発の現場へと行ったり来たりの毎日であった。
“いやだ”と思いつつも『ガマン』という事を余儀なく覚えさせられた。
慣れてくると現場の“オジサン”に、
「今度来る時はタバコ買ってきてくれ」
「牛乳買ってきてくれ」はチョイチョイだったが、
「はい」
「はい」と応じた。
少しでも快い関係でなければ、私の仕事はスムースにいかなかったのだ。
そんな些細なことでも続けていれば、そこは互いの人間関係が良好になっていくものだと感じていた。
いつしか、こちらが押し掛けた時には“急ぎの仕事”と判っているので
「オウ、よく来たな。今すぐ設備開けてやるから、すぐやれよっ」
と、気を使ってくれるようになったのだ。
私は本当に嬉しく、また、仕事も早く順調にこなせる様になっていくのを実感し、感謝するようになっていた。
この後、私でなく代わりの人が行ってもスムースに熱処理が出来るようになり、作業の流れは格段に良くなった。
最初の頃の知らんぷり、すっぽかされた苦労を思えば大変な進歩で、
“苦労は買ってでもするものだ”とはよく言ったものである。
アキトの履歴書 26
2009.09.21
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(駆け出し 3)
日本発條㈱伊那工場(宮田村にある)は宮田にあっては唯一の大手企業であり、分工場と言えども
上伊那地区においては特別な存在であった。
それ故、経済的にはもちろん政治的にもその影響力は期待されており、国政選挙にあっても
地元企業出身の国会議員の応援を歴代の工場長がしていた。
駆け出しの私にとっては、政治や経済のことなど何もわからず、世の中の何もかもに音痴であった。
だから、日発の川口工場長(当時)が海外工場(現在のタイ工場)へ赴任する旨を、
チラッと話されたのには正直驚いた。
大手企業はあの時代からすでに海外工場進出の目標や、
グローバル化の対応を始めていたということだったのかと察するが、
あの頃の私には、ただただ不思議でならなかった。
いずれにせよ、考えるレベルが井の中の蛙の私とは“どえらい違う“と思ったのだった。
当時、父が私に話した「寄らば大樹の陰で良いのだ」という意味が、少しだけ理解出来たような気がした。
けれども、下請け仕事そのものに対しての私の印象は、余り良いものではなかった。
しかし、食べて生きていくには何かしら仕事をして稼がなくてはならない。
折しも、父と意見がどうしても合わないために私はストライキを決行した。
あの頃、バイクが流行り始めた時代で、
「(不満がある。その代わりに)バイクを買ってくれなければ仕事はしない」とダダをこねたのだ。
ところが、思いがけず本田の55CCのバイクを買ってくれたので、仕事を続けることにしたのだった。
この時、父から出た言葉は、
「日発は大企業である。今後もし不況になっても日発は最後まで残るだろうし、
万一、日発がつぶれる時は日本中が全てつぶれる時だ。だから、辛抱して仕事を覚えてやってくれ」
であった。
この時、私はようやく納得をした。
これでやる気を出し、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ、と再び腹を決めて、仕事に取り組むようになった。
アキトの履歴書 25
2009.09.19
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(駆け出し 2)
私が新卒で入社した、あの頃。小木曽製作所で働いている殆んどの人が、私から見ればオバサンばかりで、
それもまあ、仕事中によくしゃべくっているものだと(おしゃべりばかりしている)少し腹が立つくらいだった。
そのオバサン達は、
「よく、この会社に入ってくれたね」
と言ってくれたのだが、私とはとても年齢が離れており、話したくもないので、
残業はせず時間(5時)がくればさっさと家に帰り、高校のバスケットクラブの様子を見に行くか、
さもなくば夕飯の時間になるまでパチンコでもして、ストレスを発散する生活を送っていた。
そんな私が家に居付くか、父は内心、気がかりだったと思う。
その日も例によってパチンコをしていると、近所の先輩が消防団の勧誘に来た。
私はしばらくは入らないと断った。
季節も過ぎ秋になると、今度は“青年会”の勧誘にあった。
「バスケットをやりたいのなら青年会に入らないと出来ないぞ」
との話だった。
当時は青年会のグループがバスケットをやっていて、市町村対抗や、郡の大会やらに参加していたのだった。
結局、バスケットにつられて私は青年会に入会した。
筆者 小木曽 章人(おぎそ あきと/ばね職人)
《小木曽精工㈱ 相談役会長》
アキトの履歴書 24
2009.09.18
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(駆け出し)
高校の卒業式を終え、直ぐに小木曽製作所に就職した。私は父の言うことを何でもやると腹に決めていた。
学生生活を終え、社会人として世間に出て働くことに対しては、抵抗は全くなかった。
金銭的なことは別として。
何の仕事でも私にとっては新鮮なものだったので、張り切って対応することが出来たのだ。
3月の末になって、高校の同級生であった気賀沢君が突然現れた。アルバイトに使って欲しいと言う。
彼は京都大学への受験に失敗したのだった。東京の予備校へ行くまでの間の約2ヶ月間、私と一緒に仕事をし、
その後、世田谷の予備校へと向かった。
年が明け昭和38年、1月も末になった頃、その気賀沢君から電話があった。
聞けば、体調を崩して駒ヶ根の前沢病院に入院していると言う。
早速、駆けつけて話をすると、あのアルバイト後、東京の予備校での猛勉強の結果、秋にはもう
“日本中どの大学を受験しても合格するだろう”と太鼓判を頂いているとの事だった。
「それは良かったな、それにしてもなぜ入院することになったのか」
との私の問いに、
「受験の準備に余裕が出来たので年末に新宿の郵便局でアルバイトをしたが、
空気の悪いところで無理をしたために肝臓まで悪くしてしまった」
と答えた。私は、
「早く治して大学受験しなきゃなのに、こんなところに長くは居られないじゃないか」
と言って彼と別れた。
その後、5月の連休になって彼がやって来た。もちろん、京都大学には入学が適って(かなって)おり、
私のところに世話になったとお礼に来てくれたのだった。確か、風呂敷を頂いた。
その頃の私はと言えば、本当の駆け出しで、日発の正門前(旧)にある、踏切り西の最初の工場(小木曽製作所としての)
で仕事に就いていた。
当時は内職をするための作業場、それに毛の生えたような工場であり仕事を始めてから5、6年ほど経ってはいたが、
決まった制服もないため、下はGパンにゴム草履(ぞうり)、上は高校の体育の時に着ていた白い長袖の運動シャツ
が、私の恰好であった。
その姿で日発までリヤカーを引き、行ったり来たり。また日発の工場内で仕事(クリープ処理工程)をしていた。
ある日、父が日発の工場長に呼び出され、
「会社の出入りをするのに“あの恰好”ではけしからん。まずい。」
との話があり、当時の日発の制服一式、安全靴から上下服、帽子の支給を受けたのだった。
しかし、あの時の私はムッとしていた。
『人が一生懸命働いているのに文句があるのか。普段の恰好なんか関係ない、制服なんかどうでもいいじゃないか』
と考えていたのだ。
それから間もなく、工場長(当時、川口さん)から今度は親子で呼び出された。話の内容は、
「子息まで会社に入れたのだから、現在の状態ではダメでしょう、もうドンドン仕事を増やしていかなければ」
と、応接室で発破(はっぱ)をかけられたのだ。
これが私の駆け出し時代のスタートであった。
アキトの履歴書 23
2009.09.11
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(ルーキーズ 2)
マラソンと言えば、4月には村のマラソン大会があり、これには一度出場した。
確か、昭和38年の伊那峡をスタートするレースであったと記憶している。この時は2着であった。
その翌年、昭和39年には東京オリンピックが開催され、兄の世話で代々木の国立競技場で
陸上競技を観ることが出来た。この時が私にとって、東京初上りであった。
100メートルでは当時、“人間機関車”の異名を持った黒人選手の、ジョン=ヘイズの活躍を観ることが出来た。
トラック競技では、ソ連の女性選手を筆頭に美女が走る様や、黒人選手が躍動感いっぱいに走り廻る姿、
その肌と白いパンツのコントラストが今でも脳裏に焼き付いている。
その後、東京から帰って来てからも白黒のテレビではオリンピック一色である。
男子マラソンを観ていると、アベベに続いて2着でトラックに戻って来たのは、何とルーキーの“円谷幸吉”であった。
自衛隊体育学校出身の彼は、トラックを周回しゴール手前で後続のランナーに抜かれてしまうが
3位の大活躍であり、涙が出るほど感動した。今でも強烈な印象があるほどだ。
あの頃の日本にとって、大ヒーローの誕生であった。
立ち戻って、私の話。
マラソンで優勝した感動と同時に、実はその逆で、運動会でドン尻になっての恥ずかしい思い出もある。
姉と一緒にリンゴの皮むき早食い競争に出たのだが、
常日頃の習慣か、姉はリンゴの皮を“馬鹿正直”に丁寧に薄くむくのである。なかなか食べるところまで行かず、
これまた大変なことになってしまった。
他の選手は要領よく、手早く、皮を厚くザクザクとむいて、どんどん先に行ってしまう。
もう、私たち以外誰も居なくなってしまった。なのに、まだ皮むきは終了しないのだ。
とうとうダントツのビリとなってしまったのだが、あの時はあれで楽しい思い出の一つとなっている。