進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。
アキトの履歴書 2
2009.05.12
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(命拾い)
川遊びと言えば、3歳になった頃(昭和21年)、自宅の横を流れる小川を飛び越えようとして落ち、
そのまま頭をゴトゴトと石で打ちながら2、30メートルほど流され、その川の曲がりっぱなで
母に拾い上げてもらったことを今でもはっきりと覚えている。
ずぶ濡れの着物でしゃっくり泣きをしていたことまで。
また、5、6歳の頃だろうか、“北の城のつり橋”を渡り岩場を下りたところに、魚釣りに行った。
その時、隣の先輩は親の釣竿を持っていて、岩肌を伝った先で釣りをしていたので、
私も釣るポイントを移動しようと、その先へと岩肌を伝っていった。しかし、途中岩がすっぽりと岸から崩れ落ち、
岩もろとも深い川の中にドボンと落ちてしまった。
その頃はまだ泳ぎが出来なかったので、もがきながら浮きつ沈みつ、
先輩の釣っている川下へと流された。先輩の前まで私が流されていった時、そこで初めて彼は気が付いてくれた。
「早く竿につかまれ。」
と、呼ぶより先に出された竿には当然つかまったのだが、
無情にもその竿は繋ぎ目から見事に抜けてしまったのだった。そのまま流され“死ぬかも知れん”と思った直後、
私の背丈でも足の届く、水かさが首の高さのところまでの浅瀬に、どうにか足先が触れたことで、
命拾いをしたのだった。
その時にも、勿論、着ているものはずぶ濡れになったが、シャツやズボンは岩に載せて乾かしてから、
何事もなかったように帰宅したのだった。
ちなみに、泳げるようになったのはその後、小学4年生か5年生になってからだと思う。
アキトの履歴書 1
2009.05.07
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(幼少期)
私は昭和18年の5月、宮田村に生まれた。
後に姉たちから聞かされたが、私が生まれた時分は日本中が、戦争末期に近く物資も底を尽き
全てを使い果たした頃であり、若い男は戦争へと駆りたてられた為、村では女、子供が留守を守る時代。
食糧確保もままならぬ頃で、男を産めや増やせやの時節柄だったらしい。
そんな時代で、私は二男として生まれた。
その時点で私の上には姉が5人いた。食べるにも事欠く時だったので、母も私が生まれた時期だけは
さすがに母乳が出なくて、お隣の農家のヤギの乳を頂き、それを飲ませてもらっていたらしいのであるが、
40年も経った頃、
「章人には悪いことをしてすまなかった。」
と、私に詫びたのだった。
姉たちはひもじさの余り、乳を沸かして赤子の子守りをしながら、味見をすると称して私に与えるのを何度も
“チョイ飲み”したらしい。そんな時代背景であったので、私は若干、栄養失調気味で育ったかも知れない。
この上ない貧乏生活、生活環境で育ったせいか今でも貧乏は全く気にならないし、
この先何があっても対応できそうだ。
そんな私も小学校に通うまでは、町の中で年長の、いわゆる“ガキ大将”に付いて、よく遊ばせてもらった。
特に小正月の厄落としの行事が楽しみでよく覚えている。背負い籠を担いで10人前後でガキ大将に付いて歩き、
“収得物”=戦利品を皆に分けてもらうのが慣わしであった。
また、昔の子供の集まりでは自然と、年上から年下の者へ、良い悪いを親代わりに教えたもので、
“弱い者いじめ”は絶対にしないことを学んだ時期でもあった。
私の時代には幼稚園、保育園の類いは無論なかったので、小学校に上がるまでは、
近所の先輩に付いてどこまでも遊びに行った。川遊びにも。
夏は大川で水泳だが、男も女もみんな“ふるちん”で一緒に遊んだものだった。
筆者 小木曽 章人(おぎそ あきと/ばね職人)
《小木曽精工㈱ 相談役会長》
(不定期で連載予定。回数は未定)