進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。
2009年 5月 16日
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アキトの履歴書 3
2009.05.16
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(小学校)
昭和24年の春、小学校に上がり、倉田陽子先生という優秀な先生に3年生まで指導頂いた。
親たちにも評判の良い先生だった。先生の実家近くの祭りの日に、電車に乗り遊びに行ったこともあった。
本当にお世話になった。
命拾いは小学校に上がってからも起こった。伊那峡のダムの船着き場だった。
昔はボートがあった。伊那峡と言えば、後々のお祭りまで、とても盛大に行われていたが、現在、
その面影はわずかに残っている程度か。
その船着き場で、悪ガキ仲間に背後から不意に突き落とされた。水はかなり深く、
落とされた拍子にしこたま水も飲んでいた。もがき苦しんだ末に何とか水面に這い上がった。
この時もまだ泳げない頃だったので必死だった。
昭和28年、小学校4年生になり、野溝先生へと担任が代わった。先生の教えは宮沢賢治一色で、
「雨にも負けず風にも負けず・・・」の詩を暗記させられるほど熱心だった。
銀河、宇宙・・・等々の言葉も、この頃良く耳にした。先生はまた、彼の本もよく私たちに読んで聞かせた。
広島の原爆の話もよくされていた。その先生が早くに亡くなられたのは、
もしかして被爆されていた方だったのかと私は思っている。
小学校の卒業文集「みのり」も自分たちで手作りした。あの当時は“ガリ版”で一枚一枚を皆で手作業で仕上げた。
“大人になったら何になりたいか”の寄せ書きに私は、「社長になりたい」と書いた。
だが、友達にはさんざん冷やかされ、馬鹿にされた。
また、野溝先生との思い出の中で、特に記憶にあるのは数字の7。
「シチ」か「ヒチ」かで、もめて、“すず竹”が砕けるまでスパルタで教えられたこと。
今でも鮮明に覚えている。私が小学生の頃の先生は、文字通り「先生」であった。
あの頃の先生と子供、親の三者の関係は、
失礼ながら現代の親バカのしつけとはかなりズレがあると感じている。
追記
物心つくようになったばかりのこと、校庭で野営していた米軍の近くに行って
「アイム、ピカドンデ、ハングリー!ハングリー!」と年上の先輩に教えられたとおりに言っていたところ、
本当にチューインガムを1箱恵んでくれた。
あの当時、まさしく夢のような出来事として、今でもしっかりと覚えている。