進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。
2009年 7月
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アキトの履歴書 16
2009.07.17
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(父と家族 2)
私の父と母は、実は遠縁にあたる同じ小木曽の姓同士で結婚したのだった。
母は津島様(神社)の前で昔、料亭をやっていた塚本の家の子(男兄弟4人と娘一人)その箱入り娘であった。
箱入り娘といっても、その後、宮田村も大不況で製糸が全滅したため、
料亭や芸者置き屋も軒並み倒産の憂き目にさらされた時代へ向かう過渡期であったと思われる。
親同士が話し合い、
「本家の傳章(ただあき)は家は貧乏だが頭も良く、良い男だから結婚しろ」と言われて一緒になったそうだ。
母は、それまで顔も知らない、話をしたこともないその人=父と、結婚当日になって初めて顔を合わせたのだった。
昔の人は親の言うことは絶対だったのだ。
私は「章人」(あきと)と名づけられた。
当初、父は「章八」(しょうはち)と名づけようと思ったようであった。
が、よくよく数え、見直したところ(子供の生まれ順、数が)7番目であったので二男として“人”を付け
自分の字を一文字加え「章人」としたらしい。
九州に居付いた叔父夫妻には子供がなかったため、私が生まれて2、3歳の頃に姉が養女と行くことになった。
その際、一人では可哀そうだと、長女と三女の二人が中学生になる頃、九州へもらわれていったのだった。
後に聞くと、九州の姉は学校が終わるのを待っていて農作業を手伝わされたそうだ。
残った次女と四女は、中学を出るとすぐに紡績工場へ就職した。当時は戦後の復興にかかった頃。
製糸や織物で日本中が活気づいていた。百姓は皆、お蚕を育てる。勢いのある時代であった。
我が家は非農家(ひのうか)と言われた。
食べ物も少なく、それでも裏の畑で少しばかりであったが色んな野菜を作ったりもした。
長男は旧実業高校(後の赤穂高校)を出て、すぐに東京の商事会社に就職(日本橋のビル)し、社宅暮らしだった。
その後、私のすぐ上の姉(五女)からは何とか高校に出してもらえるようになった。
私たちの年代は、後に「団塊の世代」と呼ばれ、戦後復興の良質な人材となるべく、社会へと旅立って行ったのだ。
アキトの履歴書 15
2009.07.16
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(父と家族)
私が生まれた時、すでに上には5人の姉がいたことは前述したが、更にその上には、長男の章薫(あきしげ)がいた。
私とは13も年が離れていて、両親が九州に居た、昭和5年に生まれた。
私の下には弟、妹が1人ずつの計3男6女の9人兄弟となっていた。
母は“貧乏してても川の字に寝かして苦労しながらも育て上げたよ”とその情景を思い出し、
後によく自慢げに話をしていた。
私はと言えば、小学校に上がる際に家族構成を書いて出す用紙が1枚では書ききれなくて困ったことを思い出す。
それでも何とか家族の名前は全て書いても、兄弟の生年月日までは流石に覚えておらず、その都度母に聞いて書いていた。
私のところまでは2つおき(みつぶせ)であったかと記憶している。
父は小木曽家の長男として生まれた。長男は早く仕事に就いた方が良いとの事で、
叔父と一緒に、当時3,000人もの女工を使っていた九州の大きな製糸工場に勤めていた。事務方の仕事をしていたようだ。
その頃の父は当時の工場長に気に入られ、よく連れだって酒の席について行き、
いわゆる芸者をあげての宴席にも頻繁に通っていたそうだ。
そのせいか、後に日発関係の偉い方との宴席では“どえらい盛り上がった”ようで、
「小木曽君はどうして、何処で(このような宴会芸を)覚えたのか。
並の人間ではとても出来るものではないのだが」(宴会通=お金がかかる)と一目置かれていたそうだ。
小唄、詩吟、都都逸(どどいつ)さのさに始まり、様々な宴会芸は相当なものだったようで、
私も同席した時に何回か聞いたことがあったが、本当にびっくりしたものだった。
タカノ会長、駒ヶ根電化の会長さん達とは似た年代で(父の方が若干年上のようだったが)馬があったようだった。
この点では、私は母に似て酒は量が飲めず、下戸であったため敵わなかった。
父が亡くなって間もない頃、駒ヶ根電化へメッキ依頼の品を持ち込んだ時には、会長さんが私を呼び止め、
わざわざ事務所へあげて下さり、お茶まで頂きながら父の生前の話をして下さった位だった。
父達の九州での生活も、日本中の製糸産業の衰退が始まった頃と重なり、例に洩れず倒産に追い込まれて、
会社で積み立てていたはずの社内貯金もパーになり、残ったものといえば、長たんす一棹くらい。
そのまま生まれ故郷に帰って来るしかなかったのだった。
その時には叔父は九州の人と結婚しており、宮田に帰ることはなく九州に居付いたのだった。
アキトの履歴書 14
2009.07.12
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(高校3年生 秋冬)
夏が終わり秋になると(昭和37年 秋)
同級生も志望大学を目指し猛勉強する者、求人情報を見て就職活動する者と完全に二分された状況になっていた。
私といえば、大学はやらないと聞かされた後、先生からは学校近くの帝国ピストンならと親に勧めたようだったが、
“もうどこにも出さない、すぐに内職工場の父の助けをしてほしい”との事だった。
もう私はがっかりで、クラスの友達がそれぞれ夢に向かっていく姿を見ては羨ましく思ったものだった。
親は、私を一旦外に出したら二度と家には戻らないと決めてかかっていたのだった。
自分の力を外の世界で試したい、挑戦したいという夢すら持てないのかと、私は心底むしゃくしゃしていた。
気賀沢君は、兄が東大へ行ったから俺は京大へ行くというし、酒井君は北大、片桐君は法大、平沢君は防衛大、
野球をやっていた小出君は駒沢大・・・、自分以外の皆には夢があるような気がした。
それでも高校は卒業しなければならない。私は、日本・世界経済の「株」をテーマに卒業論文を書き、提出した。
それに担任の松沢先生はいたく感心したらしく、私に、「物質尊重より人間尊重へ」という小冊子を与えて下さった。
著者はたしか出光興産を創業された方だったと記憶している。当時、大いに勉強になった。
今に至り、それぞれの道を夢見て挑戦していった級友たちは、どうしているだろうと思い巡らしている。
特にあの頃、卒業時は“神武以来のナベ底景気”と言われ、
名の知れた企業へ就職しても決して良い状況ではなかったからだ。
野球部の木下君は大昭和製紙へ、唐木君は日立粉末冶金、北島君はトヨタ自動車、大学進学組も先生になった人から
コンサルタント企業へ行った人ありと、卒業後もそれなりに情報が入ってきたものだったが、
流石に今では、とんとご無沙汰である。
ずいぶん昔のようだが、「貧乏人は麦を食え」と言って物議を醸した大蔵大臣もいた。(後に総理大臣になった池田勇人)
皆が果敢に挑戦していった、そんな時代だった。
『最後の勝利はゴール(決勝点)にあるのではなく、ゴールに到達するまでにいかに努力したかである』
私の目標としての言葉であり、結果だけをみて判断しないこと、と肝に銘じている。
アキトの履歴書 13
2009.07.08
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(高校3年生 春夏)
昭和37年、高校3年の春になった。
バスケ部の在籍者のうち3年生は、商業科の西(西村)と私の2人しか残っていなかった。
前年まで2度の県大会出場の実績があった我が部も、ぽっかりと穴が開いた状態のようだった。
たった2人でどうしようか。また、それまでの顧問であった二沢先生も長野高専へと転勤し去っていた。
信大から出たてホヤホヤの新任である高山先生が顧問として就いてくれはしたが、いかんとも頼りなく、
大変なことになったと感じていた。
それでも、駒工の1期生の中に春富中でバスケをやっていた数名、中でも池上、溝上の“西春近組”と、
飯島中出身の上山らを加え、レギュラーを組めるようにとチーム編成を考えた。
ただ、頼みの西は時々部を休むので、いきおい、全体の練習は私がリードするしかなかったのも事実であった。
(この頃は赤穂高校を普通・商業科と、工業科とに分校し、別々の高校とする初期の段階)
駒工組は移動して来るので、どうしても練習開始は遅くなった。
私達はボールを扱う前には必ず走り込みをした。
美女ヶ森、遠くは光前寺まで走って来てから練習に入るのが常であった。
駒工1期生の山口君はよく付いて来て、常に2番だった。
私はもちろん、新聞配達で鍛えたこの足、何キロ走ろうと平気であった。
そして、3年の春は女子が県大会出場を勝ち取った。女子は県大会は初出場だった。
県大会出場への道は、上伊那大会で決勝まで進み、南信地区で決勝まで勝ち残らないと出場資格が得られない。
よって、県大会出場が出来ることは本当に大変な快挙なのであった。
ところが、バスケの高山顧問は全くの素人だったので、私に、一緒に長野まで行って欲しいと頼んできたのだった。
期せずして、私は監督代行としてチームに同行し、善光寺に寄ったことも思い出す。
その年の夏合宿に時期を合わせるように、先輩である赤羽さんが部の様子を見に来てくれた。
順天堂大学に進学し体育の先生を目指す方であったので教えることは心得ていた。
高校時代は技術的には西春近組とは差があり、常時レギュラーというわけではなかったが、
高山顧問よりはるかにバスケには通じており、この時には部としても大変助かった。
私もこの合宿の頃には、1試合で20点台はシュートで得点出来るポイントゲッターとして活躍出来るまでになっていた。
そんな時期であったので、試合が楽しみで、面白くて仕方がなかった。
対外試合も何回かこなし、夏の南信大会では決勝まで勝ち進むことが出来たのだった。前年に卒業した先輩達は
私達が県大会に行けるはずがない、と思っていたらしい。
翌年、私が卒業した年の夏のOB交流会の際には、後輩達の世代が県大会まで行ったと聞いて大変驚き、
“誰かそんなに上手い奴がいたか?小木曽!お前か!”と練習試合で知ったようだった。
この時ばかりは、バスケットをやり通して良かったと素直に思えた。