進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。
2009年 7月 8日
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アキトの履歴書 13
2009.07.08
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(高校3年生 春夏)
昭和37年、高校3年の春になった。
バスケ部の在籍者のうち3年生は、商業科の西(西村)と私の2人しか残っていなかった。
前年まで2度の県大会出場の実績があった我が部も、ぽっかりと穴が開いた状態のようだった。
たった2人でどうしようか。また、それまでの顧問であった二沢先生も長野高専へと転勤し去っていた。
信大から出たてホヤホヤの新任である高山先生が顧問として就いてくれはしたが、いかんとも頼りなく、
大変なことになったと感じていた。
それでも、駒工の1期生の中に春富中でバスケをやっていた数名、中でも池上、溝上の“西春近組”と、
飯島中出身の上山らを加え、レギュラーを組めるようにとチーム編成を考えた。
ただ、頼みの西は時々部を休むので、いきおい、全体の練習は私がリードするしかなかったのも事実であった。
(この頃は赤穂高校を普通・商業科と、工業科とに分校し、別々の高校とする初期の段階)
駒工組は移動して来るので、どうしても練習開始は遅くなった。
私達はボールを扱う前には必ず走り込みをした。
美女ヶ森、遠くは光前寺まで走って来てから練習に入るのが常であった。
駒工1期生の山口君はよく付いて来て、常に2番だった。
私はもちろん、新聞配達で鍛えたこの足、何キロ走ろうと平気であった。
そして、3年の春は女子が県大会出場を勝ち取った。女子は県大会は初出場だった。
県大会出場への道は、上伊那大会で決勝まで進み、南信地区で決勝まで勝ち残らないと出場資格が得られない。
よって、県大会出場が出来ることは本当に大変な快挙なのであった。
ところが、バスケの高山顧問は全くの素人だったので、私に、一緒に長野まで行って欲しいと頼んできたのだった。
期せずして、私は監督代行としてチームに同行し、善光寺に寄ったことも思い出す。
その年の夏合宿に時期を合わせるように、先輩である赤羽さんが部の様子を見に来てくれた。
順天堂大学に進学し体育の先生を目指す方であったので教えることは心得ていた。
高校時代は技術的には西春近組とは差があり、常時レギュラーというわけではなかったが、
高山顧問よりはるかにバスケには通じており、この時には部としても大変助かった。
私もこの合宿の頃には、1試合で20点台はシュートで得点出来るポイントゲッターとして活躍出来るまでになっていた。
そんな時期であったので、試合が楽しみで、面白くて仕方がなかった。
対外試合も何回かこなし、夏の南信大会では決勝まで勝ち進むことが出来たのだった。前年に卒業した先輩達は
私達が県大会に行けるはずがない、と思っていたらしい。
翌年、私が卒業した年の夏のOB交流会の際には、後輩達の世代が県大会まで行ったと聞いて大変驚き、
“誰かそんなに上手い奴がいたか?小木曽!お前か!”と練習試合で知ったようだった。
この時ばかりは、バスケットをやり通して良かったと素直に思えた。