小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

2009年 9月

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アキトの履歴書 22

2009.09.10

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(ルーキーズ)
 
 高校を卒業した昭和37年の秋。
 
商工会主催の村の加入者全体の運動会が、小学校のグラウンドを借りて行われていた。
 
 当時の小木曽製作所の働き手は少人数で、女性が主体であり、出場できる種目と言えばパン食い競争、
   
満水リレー、借り物競争、障害物競争、リンゴ皮むき競争(早食い)位。
 
 それらも終わり、午前のメインにマラソン(太田切橋までの往復)があった。
 
 ウチは若い人も少なく、あまり良い成績が出せなくて参加賞ばかりであった。
 
私は足に自信があったので個人で出場出来る種目はほぼ全て出て、賞品稼ぎをしていた。
 
 高校出たての私は参加者の中では無名であったが、太田切橋までの往復位はまだ走れると思い、そのマラソン、
 
40人ほどの中へ飛び入りで出場することにした。
 
 過去の回から日発、タカノに在籍している先輩諸氏が有名だった。
 
私自身、一般の人たちに混じって走るのは初めてだったので、若干の不安を感じての参加である。
 
グラウンド中央からスタートするのだが、どんな塩梅かわからない。
 
とにかくスタート直後は最後方から追走することにして走りだした。
 
 テレビ馬のごとく駅前を過ぎる頃は、集団は私より遥か前方を行っていた。
 
私は自分なりのペースで追走していった。
 
河原町を過ぎる頃、ようやく2人、それから5人とうまいこと抜いて進んだ。駒ヶ原の坂を上り切ったところで
 
だいぶ自信がついていたので前に見えるうちは抜いて行こうと考え、ピッチを上げて走って行った。
 
下りの坂で前方に見えていた大方の人を抜き去っていたが、まだ前に何人かいる様子。
 
橋のたもとで手首にスミを付けてもらい復路になった。
 
 太田切の坂の上りにかかって、また何人か抜いたのだが、その先の駒ヶ原、里宮神社の辺りまで進むと
 
知らぬ間に前に人がいなくなってしまった。
 
少しペースを落として走ってみたりして、どうやら私がトップになってしまったのだとようやく気がついた。
 
どうしよう、どうしようと思いながら走っていく。2番以降をだいぶ離してしまったようだ。
 
銭屋さんを過ぎ、末広町へ入るところで後方を振り返って見たが誰の姿も見えない。
 
どうやってグラウンドへ入って行ったら良いのか。初めての事で何とも変な感覚だった。
 
末広町を上りきったところで、また後ろを振り返るも誰も見えず。“ええい、ままよ”と腹に決め
 
グラウンドに戻って行ったのである。
 
“優勝。こんなに簡単に1着で良いのか”
 
気恥ずかしい想いが先に立っていた。
 
 会場ではどよめきが起こり、会社のおばさん達を始め、父母もびっくりするやら大騒ぎである。
 
 その時の優勝賞品は炭俵1つとキッチン棚のセットで、その運動会の中では一番の品だった。
 
 この後、他の会社の方から諏訪湖一周駅伝に出て欲しいとの依頼があったが、
 
「私は小木曽製作所の人間ですので」と辞退したのも思い出に残っている。
 
 

アキトの履歴書 21

2009.09.01

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駅伝 2)
 
 私の走る区間は何故か最終。アンカーであり、一番長い区間だった。
 
襷(たすき)中継地点は梓橋の手前、そこから長い橋を越し、途中上り坂を経て城下町へ入り、
 
松本城の中にあるゴールを目指した。
 
 50校を超す参加チームがそれぞれにウォーミングアップをして待っていた。
 
他校の選手の足がすらっとしたカモシカの足に見えた。
 
20校くらいが中継地点に来たが、まだ、我が高校の姿が見えずヤキモキしていた頃、
 
ようやくその姿は視界に入ってきた。
 
自分が襷を受け取る前に、ランナーの集団が通り過ぎていくのを見ていた私は、
 
“よし、追いつき追い越せ”と自分に言い聞かせて、襷を受け走りだした。
 
 しかし、さすが長いエース区間である。思い通りに追いつける訳もない。
 
橋を過ぎた頃に前の集団に追いつこうと考え少し飛ばしたつもりであったが、そこは各ランナー思う事は一緒であり、
 
走りだしての最初なのだから、皆、気力体力は漲り(みなぎり)、思い通りにいかないどころか
 
順位を維持するのが精一杯という心境になってきた。
 
 しばらく走って城下町に入る手前の上り坂が見えてきた時、前との距離が少しずつ縮まってきた。
 
“よし、何人かバテ気味の人がいるわい。これはチャンス”と気持ちを入れ走っていく。
 
ここまで来ると少しの上り坂でも足にきていると感じてはいたものの、それでも頑張って1人抜き2人抜き、
 
うまいこと上にいけると思ったが、そこは各校のエース揃い、区間であった。
 
 結果、6人抜いたが7人に抜かれ、私は順位を1つ下げてゴールした。
 
 松本の市街地、城の近くまで差し掛かるとすごい応援の人だかりで走る道路が見えないほどであった。
 
沿道の人々から「赤穂ガンバ!」と声をかけられ、背中を押され、叩かれて、その間を走り抜けていく。
 
かなりの感動を覚えた。
 
しばらく人込みを進むと、前が開けた。そこがゴールである。
 
 あまり早い順位とは思わなかったが、それでも一応ゴールテープを張ってくれていたので
 
私なりに嬉しいフィニッシュだった。
 
 その時、偶然ゴール地点で加藤さん(加藤理容の前主人)にバッタリ出会った。お互いにびっくりした出会いであった。
 
 その年(昭和36年)の秋の高校駅伝は地元、高遠から伊那を結ぶコースで行われた。
 
これにも臨時の雇われ選手として出場した。
 
この時もやはり一番長い区間(7.6キロ)高遠駅から上農高校(旧 所在地)までを走った。
 
地元であったので陸上部員が自転車で併走し、直線で前方まで見えた際、
 
「それ!追いつき抜け!」と叫ばれたのだが、遥か遠くに見えるまま。
 
後続を抑えて順位キープするのがやっとである。
 
 思い返せば、当時は上農高校が全国大会出場の常連校であり、伊藤国光選手(後にカネボウへ)という
 
一流ランナーが生まれた時期でマラソンの黄金時代でもあった。