小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

2010年 2月

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アキトの履歴書 36

2010.02.27

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(祇園囃し入門~10代最後の夏~ Ⅱ)
 
 初めての祇園祭が終わり、ようやく祭りから解放された時、10代最後の思い出に海へ行こうとなった。
 
ちょい悪の小島君の提案で、5、6人で連れだって逗子へ。
 
 当時、少しばかりの貯金をはたき、夜行で東京に行き、乗り換えて三浦半島方面へと電車で向かった。
 
 海の近くの店でモリと水中メガネを買って、海岸沿いの海の家で泊まることにした。
 
 この時、海の岩の周りを潜って魚を取ったが、天竜川の魚と違って何かごつい魚だったのを記憶している。
 
更に、これまたごつい岩に貝がびっしり付いていて足が傷付いたのには驚いた。
  
 魚取りの後、今度は泳ごうということになった。
 
天竜河童の私は張り切り、喜び勇んで皆と一緒に沖の方へと泳ぎだして行ったまでは絶好調。
 
途中、境界の浮玉を越えてなお、更に沖へと泳いでいた。(遊泳禁止の線を越え)
 
 ところが、他の仲間はと振り返れば、とうに引き返しており、誰一人付いて来ていない。
 
あわてて引き返して境界の浮玉につかまって一休みしようとするも、浮くどころか私と一緒に沈んでしまう。
 
“しまった!”
 
帰りのことまでは、気にもかけていなかったのである。
 
後は必死だった。
 
 とにかく泳いで泳いで、ぼつぼつ(そろそろ)足が着く頃かと立とうとしても、
 
まだまだ深く、海水は鼻から容赦なく入ってくる。
 
命からがらとはこういうことかと思い知らされたのだが、それでも何とか浜にたどり着くことが出来た。
 
 こんな訳で19の夏の思い出は、文字通り塩辛い、しこたま塩を食らった思い出となった。
 
 

アキトの履歴書 35

2010.02.18

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(祇園囃し入門~10代最後の夏~)
 
 ちょい悪仲間のグループ共々、青年会にも入った。手始めに“やらされた”のが、祇園祭のボランティア活動である。
 
 当時は、学校を卒業すると入会の勧誘があり、先輩に男女を問わず声をかけられて入会したものだ。
 
宮田の町青年会は、他部落と違い、伝統ある祇園祭を一手に担っていたので(神事以外)、大勢の人手が必要だった。
 
5月の連休を過ぎた頃から7月14日の祭りの当日まで、囃しの笛・太鼓の練習、踊り(3曲)を習得するために
 
大変な労力を要す、一大事業となっていた。
 
 初めての時は、それは恥ずかしいもので、途中逃げ出したくなる位の“素人の旅芸人”であったから
 
無理もなかった。
 
 十人十色だから山浦さんの踊り師匠の下で、毎年新曲を教えられたものだ。
 
今思えば、出来の悪い私たちに対して、よくまあ粘り強く教えて下さった。
 
素晴らしいボランティアの先駆者であった。
 
 その昔、村が栄えた時代には春日屋に芸子をしていた経験があるとの話を先輩に聞いた。
 
何でも、若い頃はすごい人気で、村内外の男たちが競争で指名争いしたほどだったと。
 
それほどの師匠であったのだ。
 
当時は山車が壊れて組み立てられないため、木社(宮田木材)のトラックの荷台をオープンにして、
 
大太鼓、小太鼓、大川、鼓、三味線は荷台の上に、
 
笛の囃し方の10~15人は歩行しながらの行列で町じゅうを練り歩き、町内各所で止めては手踊りの披露をして、
 
ご祝儀を頂いて廻ったものだ。(当時は引き子はつけていなかった)
 
バッテリーを利用してスピーカー、レコードをかけても行なった。
 
 私は、先輩の平沢勝氏(故人)より鼓を教えられた。手の皮が剥けて痛くなるまでやった。
 
うまくならないと音が“カポン”と出ない。とにかく苦労した。
 
 初めての祇園祭が終わり、ようやく祭りから解放された時、10代最後の思い出に海へ行こうという話になり、
 
ちょい悪の小島君の提案で、5、6人で連れだって逗子へ行くことになった。
 
 彼は都会育ちで、小学校時代は女優の“松原智恵子”と机を共にしていたそうだ。
 
また、湘南地方で海水浴、魚取りと、よくして遊んでいたそうである。
 
 
(不定期で連載。回数は未定)