進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。
2010年 2月 18日
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アキトの履歴書 35
2010.02.18
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(祇園囃し入門~10代最後の夏~)
ちょい悪仲間のグループ共々、青年会にも入った。手始めに“やらされた”のが、祇園祭のボランティア活動である。
当時は、学校を卒業すると入会の勧誘があり、先輩に男女を問わず声をかけられて入会したものだ。
宮田の町青年会は、他部落と違い、伝統ある祇園祭を一手に担っていたので(神事以外)、大勢の人手が必要だった。
5月の連休を過ぎた頃から7月14日の祭りの当日まで、囃しの笛・太鼓の練習、踊り(3曲)を習得するために
大変な労力を要す、一大事業となっていた。
初めての時は、それは恥ずかしいもので、途中逃げ出したくなる位の“素人の旅芸人”であったから
無理もなかった。
十人十色だから山浦さんの踊り師匠の下で、毎年新曲を教えられたものだ。
今思えば、出来の悪い私たちに対して、よくまあ粘り強く教えて下さった。
素晴らしいボランティアの先駆者であった。
その昔、村が栄えた時代には春日屋に芸子をしていた経験があるとの話を先輩に聞いた。
何でも、若い頃はすごい人気で、村内外の男たちが競争で指名争いしたほどだったと。
それほどの師匠であったのだ。
当時は山車が壊れて組み立てられないため、木社(宮田木材)のトラックの荷台をオープンにして、
大太鼓、小太鼓、大川、鼓、三味線は荷台の上に、
笛の囃し方の10~15人は歩行しながらの行列で町じゅうを練り歩き、町内各所で止めては手踊りの披露をして、
ご祝儀を頂いて廻ったものだ。(当時は引き子はつけていなかった)
バッテリーを利用してスピーカー、レコードをかけても行なった。
私は、先輩の平沢勝氏(故人)より鼓を教えられた。手の皮が剥けて痛くなるまでやった。
うまくならないと音が“カポン”と出ない。とにかく苦労した。
初めての祇園祭が終わり、ようやく祭りから解放された時、10代最後の思い出に海へ行こうという話になり、
ちょい悪の小島君の提案で、5、6人で連れだって逗子へ行くことになった。
彼は都会育ちで、小学校時代は女優の“松原智恵子”と机を共にしていたそうだ。
また、湘南地方で海水浴、魚取りと、よくして遊んでいたそうである。
(不定期で連載。回数は未定)