進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。
2013年 5月
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アキトの履歴書 43
2013.05.28
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(青年期7~祇園祭:※あばれみこしと山車)
毎年7月14・15日は、500年の伝統を誇る宮田の祇園祭である。
青年会では神事以外の運営全てを担って代々受け継いでおり、重大な責任も背負って祭りの2日間、
まさに主役。
町青年会長を頂点に、この祭りを全員が一致団結し成功させる。村の伝統を守り継承することが大前提だった。
祭り当日(宵祭り)は、朝一で幟(のぼり)を津島神社に2本、町の一区、三区に各1本ずつ立て、
境内に手作りの市松を飾り付け、その屋根状の下に連結した提灯を竿で繋いで設置する。
神殿の前には東西に2つ、巨大な幟灯篭(のぼりとうろう)を掲げる。ここまでが朝一に準備する前段の仕事である。
そして、一度、各自家に帰り、今度は地区ごとに万国旗を、みこし、山車(やたい)が練り歩く際、
妨げにならない高さに飾り付けをする。
(この万国旗は、前日の夕方か、当日早朝に飾り付けすることとなっている)
現在の祇園祭は、7月の第3週の土日に日程を定め、開催されているが、
この頃は14・15日と決まっていたので、学校も会社も平日であれば通常通り、
授業や仕事に子供も大人も行かなくてはならない。
が、祭りの日は昼から山車が繰り出し、夕にはあばれみこしが控えている。
このため、氏子である町部の子供たちだけは、この日、特別に学校を半日であがり、
堂々とお祭りへ参加するのであった。
さて、朝食を済ませて一息つくと、山車の運行と祇園囃子(ぎおんばやし)を行うため、
着替えを持参して神社の詰め所に入り、少しの化粧と浴衣の上にタツケを着て三尺をかけ、
手作りの花笠を背に掲げる。
男子は全員が越後獅子の姿で、飾り付けた山車の後ろを横笛を吹きながらついて、街並みを練り歩く。
女子はというと、これまた全員、山車が停車するたびに手踊りを披露する。各所で停まっては
沢山のご祝儀を頂きながら運行したものだ。
あの頃は200、300円が相場で、多く出してくれる家で500円くらいだった。
その後、相場も上がって(物価?)私が会長を務めた年(23歳)には、下が500~1,000円くらいになっていた。
この時、タカノの会長さんからのご祝儀は5,000円と、飛びぬけて沢山下さったのを記憶している。
※あばれみこし
宮田村、津島神社に500年を超える伝統の祇園祭。
担がれる神輿は、街を練り歩いた後、境内に戻ったところで、ご神体を抜き、神社の石段の上から放り投げられ、
文字通り神輿がバラバラになるまで何度も落とし、打ち壊される。
この神輿の破片には無病息災、家内安全、商売繁盛等のご利益があるとされ、
氏子や、周りに詰めかける観衆の間でも我先にと奪い合う様が観られるほど。毎年、神輿は新調される。
ちなみに、子供たちが担ぐ神輿(こどもみこし)も同様に壊す様を観ることが出来る。
アキトの履歴書 42‐2
2013.05.24
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
また、当時は自動の“線出し台”がない時代だったので、女性が一人、それこそ1日中機械相手につきっきりで、
ばねを巻いたものだった。その機械の運転中にトラブルが発生した場合は、私が急ぎ飛んで行って不具合を直して、
またすぐに巻込みを再開するといった毎日だった。
大きなプレス機(30トン:ギヤ掛3号)を導入する際は、現場に入れるため、工場の入り口を一度壊して搬入。
竹井工務所で設置工事をしてもらうと、新しい仕事を始めた。
その頃からは、全加工品を出来る限り増やすことを目標として仕事を取り込んでいくようになった。
直線機で線材を3~4メートルほど直線加工し、定尺カットする。それをプレスにて曲げ絞り加工する。
更に後加工の両端曲げは内職屋さんに出した。回収したものを日発へ持ち込んでソルトテンパーを行い、
最後に両端をプレスで切断。これで、ようやくこのばねの完成となる。
当時の松下冷機の仕事だった。(冷蔵庫の部品)
まもなく、それとは別の冷蔵庫の部品が立ち上った。材質はステンレスで、仕上がりまでにバレル研磨まであり、
これまた外注(信濃精密)で表面を酸洗い。
仕上げバレルは日発で行う工程があり、最終で全検(全数検査)して完成となる仕事であった。
この品は数量は多くあったが、単価が安く苦労した。
最初のリレークランプ品はソルトテンパーへ、(当時は、日発にも電気炉があまりなかった)
ジャブ漬けして、すぐに水に浸すが、その際にバチバチと白いソルトが飛び散って
顔や手に飛んでくる、くっついてくる。とにかく大変だった。特に夏は。(薄着のため)
私の手にはその時のやけど痕が、今でも黒い斑点となって残っている。
何から何まで初物づくし、ものづくりの現場では全てが試行錯誤の連続で、
朝から晩までどうしたら安定した製品作りが出来るのか、創意工夫の事で、頭の中はいっぱいだった。
こういう現場、技法を積み重ねることで、少しずつ成果が目に見えるようになってきて、
日々、知らず知らずのうちに『挑戦する本能』が鍛えられていった気がする。
こうしてキャリアを積み、習得することが自分の自信につながり、
自然な形で努力することに目覚めていったと思う。
良い結果を出すまでに、一体どれくらいの事が考えられるのか。
とことん考え、研究し試してみることが、いかに大切か、身を持って感じる連続であり、
いつの日か努力することが楽しめるようになっている自分がいた。
ものづくりというのは、当たり前であるが、やり通した後のうまく出来たという満足感、達成感は
それまでの苦労を忘れさせるほどであり、お金に代えられない喜びとなることを知ったのだ。
アキトの履歴書 42
2013.05.23
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(青年期6~目覚める)
青年会(町青年会)、消防(第二分団)入団と活動の場が広がり、仕事にも身が入るようになり、
仲間も祇園祭を通じ増えてきた。
ちょうどその頃、私がオンボロ工場で仕事をしていた所へ、中学で同級生だった小林晃君が信大の休暇の折、
ひょっこり顔を出したことがあった。
まだまだ、かけだしの小さな内職工場であったので、若干の恥ずかしさを感じた。
ただ、次から次へと新しい仕事も入り、売上げの方も段々と右肩上がりに伸びて行く時期でもあった。
“東京コイリング”製のトーションマシンを買いに、父と東京まで出かけて行ったのもこの頃だ。
機械らしいものを購入したのはこれが最初だった。
その際、父の日発時代の仲間であった保科発條の社長とも会えて、昔話に花が咲いた。
当時、弊社の仕事といえば巻込み専門で、タカノさんの扱う品や、高島屋日発の引張ばねを、
来る日も来る日も巻いた。
後加工《ライン加工立曲げ2、フックR加工2、切断加工2、仕上げB(熱処理)》の工程が、
タカノの外注先であるカク忠さんへと途中から専門になってからも、この品はしばらく続いた。
その後にきたのも巻込み専門で、タカノさんのところの品。
折り畳みのコウモリ傘に使われる極細の特殊な長物フック品(両端が二重フックになった加工品)を手がけた。
月に数十万個の単位で巻込み、後工程へ供給し続けた。
これには、“那須工業”製のコイリングマシンを購入し充てた。ちなみにこのマシン、今も現役である。
日発の仕事をタカノさんが受け、その量産品の数量が多くやりきれない分を、
弊社が応援する仕事として更に受けるという、いわゆる孫請けスタイルだった。
この品は、ばねの径を細く巻き込むために、芯金(しんがね)もそれに合わせて細いのを用意しなくてはならない。
が、時々この鉛筆の芯ほどの太さの超硬製の芯金が、巻込み生産中に折れてしまうので、
大変苦労し、折れぬよう工夫を重ねた。
材料の線径はφ0.55で展開長が長く、その展開長を稼ぐために扇形ギヤーを特注で作成して対応した。
弊社には技術屋(職人)がいなかったし、父もやった事がない仕事だったので、とにかく、
私が一刻も早く機械を使いこなせるようになるしかなかった。
独りで考え、冶具の部品等も自分で工夫して作ってみたり、失敗もしたりと勉強の連続だった。
アキトの履歴書 41
2013.05.21
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(青年期5~疑問)
高校卒業の翌年(昭和37年)は、私が地元に居付いた関係で、同級会の幹事を任された。
男子は私、女子は林 洋子さん(地元、駒ヶ根在住)で、
正月に鳥三食堂(同級の小出 孚(マコト)君の兄の店)で行なった。
初年度だったので参加者は3分の1程度だった。
記憶に残っているのは、皆が帰った後、数人で小部屋で朝まで語り合ったこと。
当時は学生運動真っ盛りの頃だったから、日本の将来の形(政治経済)の話になった時に、
京大に行った気賀沢君はマルクス・レーニン主義。
小出君は近代経済学。
を主張し合って、互いに譲ることなく延々と朝方まで言い争っていた。私は第三者的な思いで聞いていたが、
大学で勉強するというのは、入った先の学校や本、先生の教えに、まあよくも染まるものだなと驚いた。
やはり、田舎育ちの人間は、純朴で素直で染まり易いものなのだと感じた。
今思えば、村の青年会の幹部連中が共産党にかぶれ、その受け売りで大方も染まっていったのも同じことだろう。
ただ、一旦染まったものに疑問を持てない人は、そのまま信じ込んで(思い込んで)しまい、
より良いものを探したり、考えを修正しようとせず、気に入らなければ何でも他人や国の政治のせいにする。
『反対』『反対』で、他人のことは気に掛けず、良くも悪くも自分の主張を繰り返し
小さな殻に閉じこもる人間になってしまうことが多いと思われてならない。
もとより、自らの考えがない故に、左翼に染まった先輩たちは、
先端、先駆けのごとくの言い回しに陶酔、感心している人が多いのだろうと、私は笑えて仕方なかった。
そんな私には中学生の時から頭にこびりついていることわざがあった。
『最後の勝利は、決勝点(ゴール)にあるのではなく、ゴールに到達するまでの努力にある』というもの。
自分は努力しないで他人を悪く言う。あるいは、偉そうに組織の幹部に居座り、全てを政治や国のせいにし、
出来もしない現実離れした話をして、皆を扇動する人が滑稽であり、
結局のところ、我々には良いことはないと考えていた。
こんな人たちがリーダーでは、いつかおかしくなるのではと思ったが、私は青年会に入ったばかりの“新人”だったので、
心の中では『我が道を行く』と腹に決めていた。
この頃はイデオロギーの話で『革新』に名を借り偽善者ぶるのが流行り、巷に溢れているような状況だった。
村内の青壮年の多くが、社会党支持と共産党かぶれであったため、村長だった小田切行雄氏が県議に出馬する時も、
広く支持を得るべく民主クラブとして中道的なスタイルをとったのも頷ける。
その後、小田切氏は県議を長期に渡り務めたが、県全体からみれば力不足で副議長止まりであった。
しかし、郡部(上伊那地域)では、絶大な支持と力を発揮。時代背景も良い巡り合わせであったため、
治山治水等、インフラ面では強みを示し、地域貢献に一役買った。
(意見には個人差があります。不定期で連載。回数は未定)