アキトの履歴書 4
2009.5.17
(中学校)
昭和30年の春、中学校に上がった。当初は、教室が不足していたため1クラスが55名前後で、
それが3組までぎっしりの、“スシヅメ学級”で過ごした。
1年の担任は倉田先生といった。その先生に私は一度だけ突っかかったことを記憶している。
それは日誌を毎日提出するという宿題があったのだが、ホームルームの時間に
「まだ出してない人がいるが今日中に出すように」と先生が言った時だった。
私は思わず「今日中ということは夜の12時までで良いのではないですか」と、口に出した。
ひどく怒った先生は、私に、バケツへ水を入れたものを両手に持たせ、
「廊下に立っていろ」と、そのまま2時間くらいだろうか、清掃の時間が終わるまで立たされたのであった。
“自分のことならまだしも、他人のことでつい余計な口を訊いてしまった、黙っていれば”と思ったが
後の祭りであった。
2年、3年は花村先生に指導を受けた。当時の中学時代は野球が盛んで、
1年生の時から見込みのある者として各クラス2名ずつが、野球部育成の方針で特待生扱い。
授業後の清掃免除で、私も先輩たちとともに“特訓”を受けた。練習を通しての上級生との交流も
懐かしく思い出される。
当時の我が校は、長野県南部の野球大会では常勝軍団であった。
“ベーブルース物語”の本を私に譲ってくれた先輩が、その後、地元の赤穂高校で甲子園に出場したことも
鮮明な記憶として残っている。宮田中出身者はピッチャー竹村以下3名であった。
クラブとは別の“野球部”に所属している当時は、弁当を2つ持参し、
昼とは別に清掃時間に2つ目を食べてから練習へ行ったものだ。
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