アキトの履歴書 5
2009.5.21
(中学校 2)
2年になっていたある日、休み時間に作法室の天井裏に入って遊び、その天井からK君が腰までぬけ落ち、
数人で机を積み上げて下から押し上げ助け出したこともあった。
次の授業に少し出られなかったことと合わせ、当然、えらく怒られた。
またある時は、職員室のちょうど真上の階の教室を清掃中、バケツをひっくり返して
案の定、水が階下に漏れ大騒ぎになった。これまた大変な説教をされた。
学校の畑がグラウンドの南側にあり、そこまで運ぶ“コヤシ担ぎ”もピタピタと“はね”を飛ばしながら
やっていたことも思い出す。
こんな私でも、杉原先生の英語の時間だけはプレッシャーを感じて真剣に取り組んだ。
授業中、先生は名簿のアイウエオ順に生徒を指名し、質問や問題を解かせたからである。
いやでもア・・・オの「オ」で必ず回ってくるのだ。
答えられないと立たされ、名簿順の次を追っていくということが繰り返された。
また、このやり方は高校へ行っても同様の手法を採る先生がいたので、私なりに対応せざるを得なかった。
我が家の貧乏生活は相変わらず、中学に行くと同時に、私は小遣い欲しさに新聞配達を始めた。
毎朝4時半に起きて、自分の受け持ち分は折込チラシも、自ら、手を真っ黒くしながら用意したものだった。
確か、当時(昭和30年代)の手当は1ヶ月700円であった。
コメントを残す