アキトの履歴書 8
2009.5.29
(よく遊び、よく学べ)
月700円の新聞配達のおかげで、私は待望のスケート靴を手に入れることが出来た。
小学生の頃から私はガキ大将に付いて、村内各所の大きな田んぼに水を張ってこしらえてある“スケート場”に
休日のたびに滑りに行くのが日課であったので、自分で言うのも何だが、その頃には滑りが非常に上手になっていた。
滑ることが面白くて、楽しくて、日中気温が上がって氷が割れてしまうまで滑り続けていたものだ。
ちなみに靴を手に入れるまでの用具は“下駄スケート”であった。
この下駄スケートで練習していた時すでに、千鳥足でのコーナーワーク、バック滑り、
ガニ(今で言う、イナバウアー=横滑り)と一通りの技は身に付いており、自由自在に滑ることが出来ていた。
靴スケートにしてからは、我ながら“カッコイー”などと悦に入り、滑っていた。更に上達したその頃には、
正直、田んぼのリンクでは狭く、物足りない状態だった。
新聞配達の手当では、その他に学生服やオーバーコート等も新調出来た。
田んぼと言えば、
中学に通うまで田植えはやったことがなかったのだが、ある時、同級生に誘われるままに田植えにいってみた。
しかし、全くもって下手な自分にがっかりした。私の手つき、植え方があまりに遅いので、
同級生には私の分まで植えてもらい、恐縮した。
そんな私も3年生になり、中学卒業が間近になっていたある日、
朝からいつもの調子で体育館でバク転、前宙などして遊んでいたところを先生に呼び出された。
「高校へ進学しない者と同じように遊んでばかりいて、お前は本当に高校へ行く気があるのか・・・」
との旨だった。私は、
「皆が高校へ進学するようなら私も行きます」
と返事したことを覚えている。
当時の子供たちは半分が就職、半分が進学であり、進学であっても、昼間は働きながら夜間高校へ通うことも
珍しくなかった。勉学に関しては、周囲には心配をかけたと思う。
親がいつも言っていたのは「よく遊び、よく学べ」であった。後に、
「二兎追うものは一兎も得ず」とも教えられたが。
振り返れば、中学一年の時の南部陸上競技大会。走り高跳びでは学年別で私一人が3位になり、
陸上部の先輩に褒められたこともあった。卓球も小学校時代からよく遊んでいたため、上手に出来た。
スポーツに関しては、バスケットボール以外は何でも出来たと思う。
この頃はまた、身をもって喧嘩両成敗も学んだ時期でもあった。(昭和30年代前半)
コメントを残す