アキトの履歴書 12
2009.6.23
(高校2年)
高校2年の初夏、(昭和36年)
6月から7月にかけて私の住む伊那谷を集中豪雨が襲い、伊南地区の各所で河川の氾濫や崖崩れ、
山間部の土砂崩落が次々と発生、重大な災害を被った。空には報道ヘリが飛び交い、救助活動が各所で行われた。
特に中沢、キセ、中川、大鹿の土砂災害は大変なもので、
地域部落・集落の存続の危機に直面するほどの状況に陥った場所もあった。
高校でも土曜日の午後から、
ジョレン、スコップ等を持参してキセの現場まで生徒会総出でボランティア活動に参加した。
この災害の後、現在の宮田村、大久保地区に移住してきた方々がいたほどであった。(後に三六災害と呼ばれる)
私のクラスにはバスケットボール部に入った者は私を含め3人いた。気賀沢君、小町谷君、そして私。
皆、バスケットボールは全くの初心者であったが、高校での青春、若きエネルギーをぶつけるべく在籍していた。
小町谷君は背も高く、赤穂中学では野球部の4番打者だったそうだ。
ちなみに、私のクラスから硬式野球部へ入部したのは木下、小出君の2人であった。私は体格的にも普通であったので
野球部でレギュラーは無理と感じ、遠慮というのか、尻ごみというのか、結局行かず終いとなった。
ただ、小町谷君が高校に入ってから野球を続けなかったのは何故か、私には分からなかった。
色々迷いがあったのかもしれない。
そんな状況の部活動であったが、気賀沢君は、次期赤穂高校の生徒会長に決まっていたので、
ボランティアや生徒会活動優先で、練習にも毎日は出られなくなり、休部を余儀なくされた。
もう一人の小町谷君も、少しずつ部に参加する日が減っていった。
私はと言えば、2人の分まで練習に明け暮れた。
夏の合宿は本当に辛かったが、部の皆と過ごしたあの1週間は私のバスケの技術向上に大いに役立ったと思っている。
さすがに、この時ばかりは新聞配達は休ませて頂いた。
また、この頃ギターを買った。合宿時に持ち込むためだった。
大学進学の目標がない私は、バスケ一筋に没頭出来たのだと思っている。
当時、赤穂高校には体育館が1つしかなかったため、日によっては卓球、体操、剣道などと共用することもあった。
卓球部には宮沢君が入っていて、いつだったか、遊び半分で私が相手をしたことがあった。
その際に私の腕前が上級なのを知った、卓球部の先輩である大村部長が、私に挑戦試合を申し込んできたのには
びっくりした。
しかし、試合をしても私に勝てる人はいなかった。
自画自賛のようだが、特にサーブの技術は特筆ものだったと思う。
先にふれたギターと言えば、部の3年の先輩とのお別れ会にそのギターを弾き、
小林旭の歌を歌った(ギターを抱いた渡り鳥、古城)のもいい思い出になっている。
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