アキトの履歴書 14

2009.7.12

 
(高校3年生 秋冬)
 
 夏が終わり秋になると(昭和37年 秋)
 
同級生も志望大学を目指し猛勉強する者、求人情報を見て就職活動する者と完全に二分された状況になっていた。
 
 私といえば、大学はやらないと聞かされた後、先生からは学校近くの帝国ピストンならと親に勧めたようだったが、
 
“もうどこにも出さない、すぐに内職工場の父の助けをしてほしい”との事だった。
 
もう私はがっかりで、クラスの友達がそれぞれ夢に向かっていく姿を見ては羨ましく思ったものだった。
 
 親は、私を一旦外に出したら二度と家には戻らないと決めてかかっていたのだった。
 
自分の力を外の世界で試したい、挑戦したいという夢すら持てないのかと、私は心底むしゃくしゃしていた。
 
 気賀沢君は、兄が東大へ行ったから俺は京大へ行くというし、酒井君は北大、片桐君は法大、平沢君は防衛大、
 
野球をやっていた小出君は駒沢大・・・、自分以外の皆には夢があるような気がした。
 
それでも高校は卒業しなければならない。私は、日本・世界経済の「株」をテーマに卒業論文を書き、提出した。
 
それに担任の松沢先生はいたく感心したらしく、私に、「物質尊重より人間尊重へ」という小冊子を与えて下さった。
 
著者はたしか出光興産を創業された方だったと記憶している。当時、大いに勉強になった。
 
 今に至り、それぞれの道を夢見て挑戦していった級友たちは、どうしているだろうと思い巡らしている。
 
特にあの頃、卒業時は“神武以来のナベ底景気”と言われ、
 
名の知れた企業へ就職しても決して良い状況ではなかったからだ。
 
 野球部の木下君は大昭和製紙へ、唐木君は日立粉末冶金、北島君はトヨタ自動車、大学進学組も先生になった人から
 
コンサルタント企業へ行った人ありと、卒業後もそれなりに情報が入ってきたものだったが、
 
流石に今では、とんとご無沙汰である。
 
ずいぶん昔のようだが、「貧乏人は麦を食え」と言って物議を醸した大蔵大臣もいた。(後に総理大臣になった池田勇人)
 
皆が果敢に挑戦していった、そんな時代だった。
 
『最後の勝利はゴール(決勝点)にあるのではなく、ゴールに到達するまでにいかに努力したかである』
 
 私の目標としての言葉であり、結果だけをみて判断しないこと、と肝に銘じている。
 
 

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