アキトの履歴書 21

2009.9.1

 
(駅伝 2)
 
 私の走る区間は何故か最終。アンカーであり、一番長い区間だった。
 
襷(たすき)中継地点は梓橋の手前、そこから長い橋を越し、途中上り坂を経て城下町へ入り、
 
松本城の中にあるゴールを目指した。
 
 50校を超す参加チームがそれぞれにウォーミングアップをして待っていた。
 
他校の選手の足がすらっとしたカモシカの足に見えた。
 
20校くらいが中継地点に来たが、まだ、我が高校の姿が見えずヤキモキしていた頃、
 
ようやくその姿は視界に入ってきた。
 
自分が襷を受け取る前に、ランナーの集団が通り過ぎていくのを見ていた私は、
 
“よし、追いつき追い越せ”と自分に言い聞かせて、襷を受け走りだした。
 
 しかし、さすが長いエース区間である。思い通りに追いつける訳もない。
 
橋を過ぎた頃に前の集団に追いつこうと考え少し飛ばしたつもりであったが、そこは各ランナー思う事は一緒であり、
 
走りだしての最初なのだから、皆、気力体力は漲り(みなぎり)、思い通りにいかないどころか
 
順位を維持するのが精一杯という心境になってきた。
 
 しばらく走って城下町に入る手前の上り坂が見えてきた時、前との距離が少しずつ縮まってきた。
 
“よし、何人かバテ気味の人がいるわい。これはチャンス”と気持ちを入れ走っていく。
 
ここまで来ると少しの上り坂でも足にきていると感じてはいたものの、それでも頑張って1人抜き2人抜き、
 
うまいこと上にいけると思ったが、そこは各校のエース揃い、区間であった。
 
 結果、6人抜いたが7人に抜かれ、私は順位を1つ下げてゴールした。
 
 松本の市街地、城の近くまで差し掛かるとすごい応援の人だかりで走る道路が見えないほどであった。
 
沿道の人々から「赤穂ガンバ!」と声をかけられ、背中を押され、叩かれて、その間を走り抜けていく。
 
かなりの感動を覚えた。
 
しばらく人込みを進むと、前が開けた。そこがゴールである。
 
 あまり早い順位とは思わなかったが、それでも一応ゴールテープを張ってくれていたので
 
私なりに嬉しいフィニッシュだった。
 
 その時、偶然ゴール地点で加藤さん(加藤理容の前主人)にバッタリ出会った。お互いにびっくりした出会いであった。
 
 その年(昭和36年)の秋の高校駅伝は地元、高遠から伊那を結ぶコースで行われた。
 
これにも臨時の雇われ選手として出場した。
 
この時もやはり一番長い区間(7.6キロ)高遠駅から上農高校(旧 所在地)までを走った。
 
地元であったので陸上部員が自転車で併走し、直線で前方まで見えた際、
 
「それ!追いつき抜け!」と叫ばれたのだが、遥か遠くに見えるまま。
 
後続を抑えて順位キープするのがやっとである。
 
 思い返せば、当時は上農高校が全国大会出場の常連校であり、伊藤国光選手(後にカネボウへ)という
 
一流ランナーが生まれた時期でマラソンの黄金時代でもあった。
 
 

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