アキトの履歴書 48
2013.9.26
(青年期~睦友会の結成)
年々青年会で継承してきた祇園祭も、人数が極端に少ない年代がどうしても出来てしまう。
跡取りの長男か個人で商売を営む、または親と一緒に住んでいる人くらいでは、町全体でも小人数で無理が利かない。
結婚と同時に青年会を退会してしまうという現実もあり、ただでさえ厳しい状況になりつつあったところに、
ある年代のカタマリがごっそり抜けることになった。
私が入会した時点では、そんな厳しい状況になるとは思ってもいなかった。
私の年代の前後で12~15名ほどが入会しており、これでも多い年代ではあった。
ところが、新入会員の素人集団だけ(私よりキャリアのあるのは4年先輩の5名)では、
怖い神輿(あばれみこし)には参加出来ない、とても無理だ、返納したらどうか。という話まで出始めていた。
そこで、皆でどうするか話し合いをし、(氏子の)町耕地全域に現状を広く訴えることとした。
出来る限り、祭りの人員確保と青年会への入会をお願いする。
また、金銭面からも商工会等の協力を願いたい。とした上で、
(青年会での仕切りを)継続して欲しいか、辞めても良いか、とするアンケート調査を実施した。
その結果、圧倒的な答えが、
『是非継続していって欲しい』
また、
『今では村を挙げての祭りとなっており、唯一、お客を呼べるイベントで、大切なものだ』
という総意が得られた。
ここで辞めてしまうのが、一番楽な話だったが、よし、頑張ってやってやろうとの思いを強くした。
今一度、会員皆で協力し合ってやっていこうと、結束を図ることにもなった。
こういう事から、私たち仲間の固い絆、親子よりも強い仲間意識が生まれ、
互いの立場に立ち苦楽を共にするという気持ちを共有していた。
ある日、私の家に数人が集まった。小さな会を作り長く付き合っていこう、互いに切磋琢磨し、
仕事、家業にもこの先頑張って、資質向上に努めようとの意思でまとまり、親睦を第一とする『睦友会』を結成した。
“自主独立の精神に燃え、互いに協力し将来に向かって良き仲間であり続けるものとする”を旨とし、
当初7人で発足した。
新たに入会者がある場合、1人でも反対する者が出れば入会は適わないというルールだった。
青年会に入って2~3年、いつの行事も協力し、一緒に時を過ごしてきたメンツであり、
最強、最高の仲間だった。
特筆すべきことは、この仲間はそれぞれ職種が全く違っていた事だ。
橋本君は郵便局、酒井氏は農協、下平君は電気工事店、小田切氏は大工、近藤君は鉄工所(山浦鉄工)、
保科君は農業、それに私。
村の消防団にも橋本君を除く全員が入っているかけ出しの同志だった。
20歳を過ぎた頃より皆、独立志向が目覚め、サラリーマンの仲間には、起業して独立して小さくても良いので
“一国一城の主”になるよう、お互いに後押しするべく話し合ったものである。
大工の小田切氏は“棟梁”を目指し、酒井氏も家業を継ぐ(白木屋)、保科君も農業経営、私も家業を継ぐべく、
それぞれに意を決することとなっていった。
下平君には『宮田村は小さな工場も沢山あるし、電気工事店の会社を起こせば立派に成功するぞ』と、皆で勧めた。
本人もやる気はあったが、叶わなかった。
橋本君は公務員であったのでサラリーマンとして最後まで勤め上げた。
それぞれ目標が決まればそれに向かって進んでいったものだ。
そんな中、山浦鉄工へ勤めていた近藤君が、最後に独立して鉄工所を始めたのは、大きな決断だったと思う。
こんな小さな村にあっても、我々が将来に向け思い通りに取り仕切ってやろう、出来るまで頑張ろうと
夢を膨らませた時代であった。
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