アキトの履歴書 51

2014.8.11

 
(青年会と政治活動)
 
 私が20才になって初めて、国政選挙で選挙権を持ち投票したのは、町の亀屋の主人、小木曽幹夫氏の推挙する
 
吉川久江(キウエ)氏。農業関係の国会議員だった。
 
 成人式が終わるとすぐに、私の家に来て、親父に話をしていった。私も、あの当時は何も知らずに
 
言われるがまま投票していた。国会議員として当選した後日、記念の品(バックルに菊のご紋の付いたベルト)を
 
頂いた事を憶えている。その頃は中選挙区制で、この南信地方には3~4名の国会議員がいた。
 
主な“縄張り争い”は、岡谷・諏訪地区、上伊那地区、下伊那地区で、それぞれに地盤を持った人達で代表が決まる。
 
下伊那は中島がん、上伊那は吉川久江、諏訪地区は小川平二、と、定番の方々が決まっていたようだ。
 
 この頃は、岡谷の共産党を標榜する林百郎氏が、各地区で今にいう“ドブ板選挙”を進め、
 
労組を廻って支持を大きく伸ばして行った時代でもあった。
 
労組のある大きな会社へ乗り込んで歩くスタイル、いわゆる全国区的な選挙活動である。
 
そのうちに、私のところの内職工場の中にまで、襷(タスキ)がけのまま本人が入り込んで、
 
やたらに握手をして去って行った。
 
 これには親父も驚くほどで、各地区への支持の浸透と広がりは、大変な勢いであったものと想像出来る。
 
しかも、おかしな事には、青年会の郡連役員になっている人達は、彼を応援する組織の中に組み込まれており、
 
各単会の長より偉い位置付けの様子であったが、こちらはそれどころではなかった。
 
 私ども町青年会では祇園祭を担うという一大行事が控えており、そんな
 
『共産党だ』、『社会党だ』の話などする暇もない。
 
それでも政治活動をする共産党員がはびこり、私のように特定の思想を持たない無党派の皆には、
 
なんとも反発する事態が起きたのだった。
 
 

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