アキトの履歴書 55
2014.8.16
(青年期:母のカミナリ)
サブをやった時の祇園祭。神輿の壊しで無事終了かと思ったが、最終の石段の上で、
『三役に任せろ!』
の掛け声が飛び、私を含む3人で
十の字だけになった(既に大半は壊れているので)神輿の心棒を撚り合い(よりあい)、
後は会長独りで叩き付け心棒が折れる寸前となるところまで、お膳立てをしっかりやった。
そして、心棒から少し上の位置で通してある楔(くさび)の部分を何回か打ち付けるのだが、なかなか折れない。
何回か繰り返しているうちに1回、(心棒が)まともに跳ね返って私の目の眉毛をかすった。と思ったら、
生暖かいもの(鮮血)がピューッと吹き出た。あわてて豆絞りで目の上を縛り付ける。
正に皮一枚のところで事なきを得た。会長の最後の心棒の破壊もヨイショ、ヨイショの掛け声で恰好がついた。
そして、大三国の花火の下を喜び駆け回った。両肩はもちろん、神輿担ぎで赤剥け(あかむけ)になった。
この赤剥けは毎年のこと。
完治するまでシャツがくっついて、結局、お盆を迎える頃までなかなか治らずにいたことも懐かしい。
この年の夏、町の支部会でキャンプ場に行き、花火を繋いで100メートルほどの“ナイヤガラの滝”を作り、
派手に盛り上がった。
そんなお祭りの時期が過ぎた後は、仕事の山が待っていた。日発へ行ったり戻ったりの忙しい日々が続いていた。
そんなある日、私が日発へ出かけて工場を留守にしていた際、後輩の娘(役場勤務)から電話がかかってきた。
私を呼んで欲しいとの内容らしかったが、これに応対した母が
『男が一生懸命仕事をしているのに、とんでもない女だ』と言ったらしい。
後で彼女本人に聞いてみると、
どえらい剣幕で『昼間には二度と電話をするな』と言われたそうだ。
そんな事件があり、
「(母が恐くて)もう、あなたとは付き合えません。」と言われ、
私は見事に振られたのだった。当時の村役場は、何人かの若い女性が交代で電話番をしていたようだ。
私から逃げてしまわれた彼女は、それから数年後に郵便局に勤める方と結婚したが、
60歳を少し過ぎた頃に病死したと聞く。
あの時、母のカミナリがなかったら、結婚するも私は早々にヤモメになっていたか知れない。
この頃は、今までの仕事が右肩上がりで、増々大量になっていくばかり。国中が懸命に働き、お金を貯めては
欲しかった家電製品を買い足して、いわゆる家電の『三種の神器』(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)という成長の象徴、
豊かさを求め実感するという時代。日本の社会、経済は活気に溢れており、集団就職列車で東北から上野を目指し、
南は沖縄、九州からも“金の卵たち”(中卒の若者)が続々と東京へ向かった。
日発でも、一時、九州から中卒で100人位の集団が来た際、
シート工場(名古屋、トヨタ向)立ち上げの2~3年の現場は見習い実習生で溢れていた。
私の工場では、本田向の二輪車(バイク)のブレーキシュー(スプリング)が、これまた、増産に次ぐ増産で
月産30万~45万個という数をこなすため、毎日フル生産に追われていた。
※ ブレーキシュー:二輪車(バイク)のブレーキ部分に使われるばね。
二輪車1台につき、前輪、後輪部に各2個使いで計4個必要となる。
重要保安部品の指定があり、当時の弊社では唯一、厳格なロット管理を徹底し流動していた。
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